結論、まだ完全にはやめられていないけど。
これまで私は学歴・賞歴・資格にこだわっていた。とか言いつつ、そもそも私の学歴も賞歴も資格も、世間様から見れば大した内容ではない。大卒ではあるが、偏差値はMARCH以下である。入賞経験はあるが、最優秀賞ではない。資格もまた然り。車は運転できるが、人を乗せて運転するのは気を遣って疲れるから全然運転していないし、今後もなるべくなら運転したくない。TOEICやIELTSは受験したことがあるけど、就職に全然有利なスコアには全然届いていない。剣道2段が役立つ場面はない。
前述した内容から漂ってくるのは、学歴・賞歴・資格へのコンプレックス。
こだわりではなく、コンプレックスを抱えている。
そんなコンプレックスを打破したくて、目標を「東京大学」に定め、勉強を中学校(教科によっては小学校)からやり直したり、目標を最優秀賞に定め、自分の作品に何が足りないか熟考したり、自分の作品が“きちんと”語れるよう美術史を学んでみたり、目標を海外留学に必要なスコアに定め、スピーキングやライティングのアプリを入れて勉強に励んでみたり……。
でも結局、コンプレックスを打破したくて始めた勉強(大学受験も、作品への裏付けを目的としたことも、何もかも)は続いていない。続かなかった。
なぜ続けられないか。
「東京大学」でやりたいことなんてないと気づいたから。作品への裏付けを強固にしたところで、自分の描きたいものや制作の動機にはならないと気づいたから。TOEICやIELTSのスコアを上げたいだけで、そのために培った技術を用いてやりたいことなんてないと気づいたから。
学歴・賞歴・資格にこだわるのは、他人からの評価を気にしているから。“何者でもない自分”が恥ずかしいから。でも、“何者でもない自分”が恥ずかしいことを理由に、東大を目指したり、最優秀賞を目指したり、TOEICやIELTSの高スコアを目指したりすることのほうが恥ずかしいんじゃないかと思うようになった。東大生や最優秀賞を得た人、TOEIC満点、IELTS高スコアな人たちのインタビュー記事を読んだ時、そんな動機で目的を達成した人は1人もいなかった。
「何もないから、何かを得ようとする」というのは、ただただ虚しくなるだけなんじゃないか。
加えて、ある講座で画家としての略歴と自分史を作ったとき、大学院修士課程を出ておきながら、それを活かせないことが恥ずかしいと思った。
大学院修士課程を修了したのは事実だが、当時の私なぞ、担当教授とコミュニケーションがとれないコミュ障なうえに、大した研究実績も残せていないカス学生である。研究内容にワクワクした気持ちは嘘じゃないが、優秀な学生ではなかった。そんな学生生活を送っていたくせに、個展やイベントなどでお客さんとの会話の糸口にするために、学歴に記載していた。
その講座で、「面白い学歴なんだから、略歴に研究内容も書いたら」と提案されたとき、とてもじゃないけど書けないと思った。そんなことしたら、真面目に研究に励んでいる学生に申し訳ない、と思った。私が大学院に入った理由は不純だから。学生生活を延ばしただけに過ぎない。
恥を乗り越えるためには、これまでの学歴も賞歴も資格もさらけ出した上で、それが他者に示すものや自分が恥だと感じている部分以上の成果を残せばいいんじゃないか、とも思う。
でも、私は、今後の略歴から学歴も賞歴も資格も消して、“何者でもない”を強く自覚したうえで、自分のやりたいこと・やるべきことに向き合うべきなんじゃないかと思っている。
今、に集中するためでもある。
“何者でもない”うえに、仕事がガクンと減った。上記の出来事だけじゃないけど、あらゆることへのモチベーションもガクンと下がってしまった。仕事が減り、モチベーションも下がったことで、稼ぎが減った。ものすごくお金を稼ぎたいわけではないけど、細々と、低ストレスで働き続けるために、どうすべきか考える必要があった。まずはとにかく今、に集中するために、「今、やれていないこと」を手放そうと考えた。それで、自分の「今、やれていないこと」を探す中で、冒頭で述べたような勉強がまったくできていないことに気づいたのだ。
やろうと思えないことは、それほど好きではない、興味がないものだと思った。「では、それはなぜか」を深掘りする中で、「学歴・賞歴・資格のこだわり=学歴・賞歴・資格へのコンプレックス」に気づいた。
“何者でもない”からこそ、学歴・賞歴・資格が武器になるのは事実だと思うが、現在35歳、母が亡くなった年齢が52歳、あと17年しか生きられないとしたとき、それか、仮にお金を稼がなくてもよくなったとき、学歴・賞歴・資格を得るために私がやろうとしたことを「やりたいか?」と自分に問うてみたら、笑えるぐらい全くやりたくなかった。東大も最優秀賞もTOEICやIELTSの高スコアも、他人を気にして「〜しなきゃ」と思っていただけだ。私がほしかったのは、学歴・賞歴・資格ではなく、他人の評価だ。しかし、そんなものを得ても、私は心地良くなれるのか?
勉強そのものには興味があるから、誰かにビクビクするでもなく、自発的に、能動的に、「やりたい」と思えたら、再開したい。でも今は、再開できない気がしている。そういうコンプレックスに気づいて、少しずつ買い足していた学習参考書を物理的に手放した後、ものすごく心が落ち着いているから。名残惜しくて少しだけ残した学習参考書を、フタのついた箱にしまって見えなくしたら、ものすごく安らかな気持ちになってしまったから。これまでの悪あがきが恥ずかしく、虚しく思えるけど、同時にすごく楽になった。
こんな風にして、やめたこと(やめようとしていること)を増やして、心を楽にして、母が亡くなった年齢で自分も死ぬと仮定した上で、健やかに生きられたらなあと考えている。
※この記事は、全文無料公開です。「投げ銭をしてもいいよ」という方は、「自由課金で読む」のボタンから投げ銭していただけると幸いです。価格は、閲覧後にあなたが思う適切な金額をご指定ください。今後の記事作成の励みになります。