自分に自信をもつのに、ものすごく時間がかかったという話。
はじめに
最近、めちゃくちゃ筋トレにハマっている。
元々長続きしないタイプの人間なので、三日坊主になると思っていた。しかし筋トレは習慣化できた。ライター仕事、ブログ、絵描き業が三日坊主にならず続いているものの一例だが、そこに筋トレが加わるとは思ってもいなかった。
さて、筋トレにハマり、メキメキと変わりゆく自分の肉体に「おお〜」と感心している今日この頃。そういえば、わたしが”わたしでいること”に自信をつけたのは、つい最近のことだ。
思えばわたしはコンプレックスの塊で、何をしても自信がなく、他人の視線を”勝手に”怖がっていた。
わたしがわたしでいられるようになるまで
コンプレックスまみれ
小学校〜会社員時代まで、わたしはコンプレックスまみれだった。
周りの人にはよく「何でも自信ありそうに見える」「精神的に強そう」「図太そう」などと言われるのだが、実際のわたしのメンタルは固まってないお豆腐ぐらいのゆるゆるメンタルだった。
小さな頃のわたしのコンプレックスは「人と仲良くできない」「気づくと周りから浮いてしまう」。中学生・高校生時代には「肩幅がしっかりしている」「お腹がぽっこりしている」「顔が丸い」「顔がでかい」。大学生時代には演劇部だったので「演技が下手」「目立てない」「表情がない」など。
あらゆるコンプレックスが積み重なっていた。悲しいことに、それぞれの時期にそれぞれ違うコンプレックスを抱えていればまだ良かったのだが、それぞれの時期に生じたコンプレックスは解消されることなく蓄積されていた。
ゆえに、成長すればするほど、自信がなくなっていったのである。
しかし周りの人からは「自信がなさそう」には全然見えないらしい。「このぐらいなら大丈夫そう」と投げられた言葉で、ひっそりと傷ついていたことを時々思い出す。
ただ、わたしはその時「傷ついた」と発しなかった。自分の中で「だからわたしはこうなんだ」と卑下するような納得しかできなかった。「その言葉は不快だ」と言えば良かったのだが、自分で自分を肯定する術を知らなすぎたのだと思う。
「誰もお前なんか見てないんだよ」
大学生時代、大好きな演劇に張り切りすぎたわたしは、時々勝手に部員に対してギスギスした感情を抱いていた。今考えれば、それはただの嫉妬だし、自分のやりたいことと向いていることが合わないことへの苛立ちを人にぶつけているだけだった。
でもある先輩はものすごく冷静に、何度も何度もわたしに説いてくれていた。
「お前が思っているよりも、誰もお前なんか見てないんだよ」
人と仲良くできず、気づくと周りから浮いていることがコンプレックスだったこの頃のわたしは、注目を集めることができればみんなと仲良くできると思っていた。だから当時は、先輩が言ってくれたこの言葉を受け入れることはできなかった。
でも、途中でこの言葉の意味に気づいた。わたしのコンプレックスである
- 人と仲良くできない
- 気づくと周りから浮いてしまう
- 肩幅がしっかりしている
- お腹がぽっこりしている
- 顔が丸い
- 顔がでかい
- 演技が下手
- 目立てない
- 表情がない
を気にしているのは自分だけだということに。
もちろん時には、自分が気にしていることを平気で指摘してくる人がいるけれど、指摘してくる人よりしてこない人のほうが当たり前のように多いのだ。指摘されるから、そのことが思い出されて不快になるんであって、大抵の人は気にも留めていないはずだ。
勝手に怖がって、自信を失っていた
それでもやっぱり、自信をもつのはそう簡単なことではない。
なかなか自信をもてなかった例として、筋トレの話を挙げる。筋トレで自分のコンプレックスを解消するチャンスは今までもあった。でも今までやらなかったのは、他人を気にする自分がいたからである。
自分だけが他人を気にしていた。
剣道部員だったときも、演劇部員だったときも、筋トレに励む機会はあった。剣道部時代も演劇部時代も、自分たちの技術を強化するために「みんなで筋トレに励もう」という機会があった。
でも、あの頃のわたしはそこから逃げた。
体力に自信がなかった。周りよりできないことを指摘されるのが怖かった。周りがみんなやっているのに自分だけやらない、やれない、できていないという環境が嫌で逃げた。みんなが一生懸命筋トレに励む姿を陰で見ていた。でも、参加しなかった。
今考えれば、みんな結果的には”自分のために”筋トレに励んでいるわけだから、わたしが「嫌だ」という感情なんて、みんなにとっては心底どうでもいい内容だ。
でも、わたしは勝手に怖がっていた。みんながわたしのことを「こいつ何にもできねえんだな」と思っている・・・そう思い込んでいたのだ。
他人の目を気にしなくなるとどうでもよくなる
気にしているのは自分だけだと気づくと、途端に楽になる。
もちろんコンプレックスが0になったわけじゃない。街中を歩くと華奢な女の子が目に留まる。わたしは骨太でがっしりした体型なので、彼女たちのようにはなれない。彼女たちの横に並ぶと、平均体型なはずなのにでかく見えるのは、正直、時々、やっぱり、気になる。
でもそれって、わたしが他の人たちと自分を”勝手に”比べているからに他ならない。
誰かが基準を設定したわけでもないのに、勝手に「こうあるべきなのでは」と考えているから気になるのだ。
わたしはわたし。
とやかく言う人の存在が決して0にならないのは少々悔しいが、堂々としてればいいのだ。恥ずかしいから隠すより、堂々とさらけ出すほうが後ろめたさがない。
というより・・・隠すことを強いるものと付き合うより、堂々とさらけ出したことを愛してくれるものと付き合いたい。
だからわたしはわたしでいい。
ここまで25年かかっている
今のわたしは自信があって、だから自分にないものに対して嫉妬に狂うこともないし、勝手に凹むこともなくなった。とはいえ、ここまで25年かかっている。自信満々で生きるのに25年はかかった。
「自信をもて」と人は言うけれど、そう簡単に自信がもてたら苦労しねえよ!!!って話である。
わたしがわたしでいられるようになったきっかけは、皮肉にも、自分に自信があるか否かなど関係ない病気がきっかけだった。
「自分の人生を楽しいと思えないまま死ぬのは嫌だ!」 という境地に立って、やっと自信がもてた。
自信をつけるのはゆっくりでいい
だから個人的には、自信をもって「わたしはわたし」と思えるようになるために存分に時間をかけていいと思っている。自分に言い訳するのも、自分を鼓舞できるのも、結局は自分だけである。 だから焦んなくていいと思う。ゆっくりでいいと思う。
ゆっくりでいいから諦めてほしくないな、とも思う。
「自分なんて・・・」と思いがちな人がいるのであれば、そう思っちゃったときに「いかんいかん」と思えたら、まずはもう十分である。
食べ過ぎたなら、次の日セーブすればいいし、人の心を傷つけて後悔してるなら、謝ればいい。苦手だな〜と思ったら、距離を置いたっていいし、飽きちゃったなら、やめてもいい。
注:ただし相手の感情や対象物をコントロールできないことは理解しておこう。自分でコントロールできるのは、自分だけだ。
自分が決めた選択に後悔しなければ、それでいいじゃない。
最近ハマった筋トレで成果が出たとき、思ったことを話してみた。
今まで避けてきたことをやれるようになっただけで成長だし、三日坊主になると思ってたものが習慣化しただけで成長だし、成果が出たことが成長だ。でもそれに25年かかったな〜って思ったんだ。
25年かかったけど、「いつ死ぬかわからない」なんて思いながら100才まで生きれたとしたら・・・あと72年もあるんだ。まだ自信をもてていない人も、先を考えてみれば、焦らなくても大丈夫。
ゆっくりでいいから、諦めない。
では。