こんにちは、齋藤吐夢です。
私は今、毎日を楽しく生きている自負がありますが、「不安が一個もない」って訳ではない。むしろめっちゃある。不安、めっちゃくちゃある。
ただ不安を克服しようとは思ってない。克服なんてできないと思ってるし、できなくていいと思ってる。不安が”絶対にある”ものなら、一生一緒にいてやる!って思う。
不安は克服できるものではない
私がこの発想に至ったのは、人より不安思考が強いからな気もするが、私の身に起きたことを知っていただければ「ほぉ・・・」となるだろう。
今では「20歳でこの経験をしたなんてそうそういないぞ!」と前向きに捉えている笑。
前向きに捉えている・・・とは言え、不安がなくなった訳ではない。むしろずっと不安がつきまとう。今の所再発していないけど「1度がんを経験した人」に変わりはないから。その考えがゆえ、不安は克服できないと思っている。
その代わり、不安を認める
その代わり、と言ってはなんだが、私はこの不安を認めている。「そうだね、再発は怖いね」と自分で自分に言い聞かせることで、なんとか不安に押しつぶされそうな気持ちに対応している。
別に不安があったところで、不安そのものが私を殺すわけではないのだ。
もちろん、芥川龍之介の遺書にあった”ぼんやりとした不安”は、彼を自殺に追い込んだが、脳の誤作動(精神疾患等)で追い込まれない限りは、不安そのものが人を殺すことはない。
不安なんて”ある”もんだ、というのが私の考えだ。
不安に対する弱音は吐く
ただし、その認めた不安を抱え込む必要もない。
不安で不安でたまらない時「不安で不安でたまらないんだ」と言っていいと思う。言葉がダメなら泣いてもいいんじゃないかと思う。とにもかくにも、その不安を悟られないように我慢することが何よりもいけない。
私の場合、はじめのうちは不安が大きすぎることが恥ずかしかったし、他の人が意気消沈しないようにと元気に振舞って見せることが多かった。そうすることで不安をかき消そうとしていた。けど、結局は不安を抱えきれなくなって爆発した。うつになった。
今は漠然と「あ、不安だ」と思った時、結構容赦無く涙が出る。私は結婚し、夫と共に住んでいるが、夫はそんな私を見慣れている。「あ、今、そういう時期なんだね」と言ってくれる。不安は不安だと言っていいのだ。
不安のない人生を無理に望まない
そんなこんなで、私は「めっちゃくちゃ楽しいが、不安がないわけではない」という人生を歩んでいる。不安がない人生は望んでない、無理に望んでない。
不安は”ある”もんだ、と捉えて生きているので、精神的にラクである。
時々「ガーン・・・」となるような出来事も起きる。でもそれに引きずられることは少なくなった。「ま、そんなこともあるよなあ、生きてれば」ぐらいにはなった。ショックじゃないわけではないけれど「ショックだなあ」それで終わりである。
不安を克服できなくてもいい
もちろんね、「不安を克服する」って目標を立てて生きている人ならきっと「克服したい→実行する→達成する」が成り立つと思うから、それはそれでいい。
ただ漠然と不安で不安でたまらないなら、いっそのこと不安を不安と認めちゃえ〜と思うのだ。
だってラクだもん。
ラクをする、というのはある種しっかりと怠けなので、聞こえが悪く思う人もいるかもしれないが、不安というマイナス面に力を込めてもなあ・・・というのが私の意見である。
ポジティブなことを怠けるわけではないから、不安に対してはラクしてもいいんじゃなかろうか。
では。
◆本日の一冊◆
不安な気持ちがラクになる、phaさんの本。