病気との向き合い方って難しい。

8/18に記事を書いてから、何もできなかった。自分の感覚としては、文字通り、何もできなかった。実際には生活があるので、ある時間になったら洗濯機を回したり乾燥機にかけたり、お皿を洗ったり料理を作ったり、子どもの世話をしたりを“何か”はしていたのだけれど、逆に、その“何か”を除いてはずっと寝てばかりだった。

双極性障害の治療をしているが、お薬との距離を間違えた、と思った。感覚として、うつ状態が増えてきた感じがしたので、お医者様に増薬の相談をして、増薬してみたところ、信じられないぐらい何もできなくなったのだ。無気力。無感情。何に対しても、何も思えないといった感じ。前述した通り、生活があるから、生活はするのだけれど、それに対する行動はすべて“義務”といった感じで、機械的な感じで、しなきゃいけないから無理やり体を動かすといった感じで。

そういう状態が続く中、段々と頭の中にこんな疑問が浮かぶようになっていった。

薬を飲んで、無気力・無感情・無意欲みたいな状態になって、最低限の家事以外は眠ることしかできないという生活は果たして“健全”なのか。

気分のアップダウンはあれど、創作意欲があって、めんどくさがりだけどもっと義務的な感覚ではなく文句を言いながらも家事をしていた頃、あれは本当に“不健全”だったのか。

服薬による変化も確かにある。希死念慮はなくなったし、仕事も子育ても一生懸命な眩しい夫を恨んでしまう感情は減った。でも、希死念慮がなくなったのは薬のおかげかもしれないが、夫への感情は、それは、わたしが書く・描くことを一旦やめると決めたからかもしれない。

難しいのは、表現活動を一旦やめることは、取りやめないつもりだけれど(育児を考えるとやっぱり3〜10年は休止した方がよい気がするから)、創作意欲が失われることはあまり好ましくない。

希死念慮は一般的によくないことだと思うから、なくなったままでいいだろうなと思う反面、それはこれまでずっと横にいて、表現の源泉でもあった。多分。

それを薬で0にする。これまでの生き方を否定するものではないのだと思うけど、じゃあ、これまでの生き方はなんだったんだ、なんてことも思ってしまう。

医療従事者の方に怒られる覚悟でさらけ出すけど、本当はやってはならないことだけれど、いわゆる「自己判断で断薬する」を今、やってみている。急激には減ってないけど、少しずつ薬を減らして、体と心の変化を観察している。(説得力ないけど、やっちゃダメだよ)

普通ってなんだろう。

薬を減らした変化としては、こうやって文章が書けるようになった。リラックスした心持ちで「掃除しよう」「シーツを洗濯しよう」と思えるようになった。

だけど、双極性障害について調べてみると時々、「大掃除を始める」っていうのが軽躁の症状として紹介されていることがあって、「自発的に掃除をしよう」って感覚が軽躁なのだとしたら、「(本人が)調子がいいと感じている」が病気なのだとしたら、わたしが病気じゃなかった瞬間なんてなかったのか、と少し絶望する。

活動的なこと全てが軽躁ではないと思いたいけど、活動的なこと全てが軽躁なのだとしたら、うつの火種なのだとしたら、いつ、わたしは、病気じゃないわたしだったのか。人は、そんなに感情がアップダウンしないものなのか。創作意欲がわかないものなのか。

薬を飲んでみて、創作意欲が0になって、感情のアップダウンは減ったし、家事も決まった時間にできるようになったけど、何も楽しいと思えなくて、それが“普通”なのか。

うだうだ色々書いているが、要するにわたしは、だんだんわからなくなってきたのだ。

同じ、または同じような症状をお持ちの方、教えてほしいです。薬を飲んで良かったことはなんですか?薬をやめて良かったことはなんですか?服薬前後の変化で疑問に思ったことはありますか?

可能なら、苦しい気持ちにならずに、書き・描きものを続けたいのが本音。両方を叶えることはできるのだろうか。今は、正直、服薬しても涙が止まらないし、書き・描きものはできていないのだ。服薬して、両方できないというのは、本当に良いことなのだろうか。

これはもしかすると“薬が合っていない”ってことだったりするのか。何せ、何もわからない。いち患者でしかないし、経験が少ないから、合う・合わないがよくわからない。しかも病院はいつも予約がいっぱいで、通院時に予約した日時以外には結局全然通えないのだ。

困っている。