先刻、ジュリア・ケラー著/児嶋修訳「やめる 最良の人生戦略」(日経BP・2026年)を読み終えた。エピローグを読んでいる最中に涙が出てきて、ボロッボロ泣いた。
誰かに責められているわけでもないのに、今、わたしは、これまで積み上げてきたものがなくなることを強く恐れている。新しく生まれてきた命に対して、「可愛い」と思えているけれど、人生がガラリと変わるようなその出来事をいまだに受け入れきれずにいる。
変わっていないように見える人が目の前にいるからかもしれない。彼は、仕事を失うことなく子どもを手に入れた、そんな風に見えてしまっているから。実際はそんなことないかもしれないのにね。睡眠不足で大変そうに見えるときもあるのに、わたしの心はひっそりと彼への恨みでいっぱいだ。
とはいえ、やっぱり変わってしまったものは変えられない。
そういうときに出会ったのが冒頭で紹介した書籍で、その書籍によってわたしの心はほんの少しだけど報われた。報われた、とは違うか。でも、なんだか、少しだけあきらめがついた気がしている。
あきらめがついた一説について引用する。
依存症などの悪しき行動は、やめられない場合もある。だが、やめることに失敗したからといって、それが私たちが悪い人間であることや、利己的であること、愚かであることを意味するのではない。こうした失敗をするからこそ、私たちは人間なのだ。そして人間らしさの本質とは、人生では、自分の思い通りにコントロールできないことや、遺伝や偶然によって決定されること、どうしても達成できないこと(どれだけ前向きな気持ちを持とうとしても、スマートウォッチの助けを借りても)が、いかに多いかを理解し、受け入れることにある。
私たちがコントロールできるのは、決して完璧ではない自分や他人を許すことだろう。
引用元:ジュリア・ケラー著/児嶋修訳「やめる 最良の人生戦略」p.339(日経BP・2026年)
人生には、必死の努力が無駄になるときもある。望ましい人生を生き、理想的な自分になるための試みを、放棄しなければならないときがくる。そのとき、私たちはすべてを手放す。そして、矛盾した自分を受け入れ、現実に合わせて柔軟に生き方を変えようとする。実現できそうにはないことは手放すが、それでも、妥協した人生のなかに価値を見出そうとする。
引用元:ジュリア・ケラー著/児嶋修訳「やめる 最良の人生戦略」p.340(日経BP・2026年)
多分、わたしはこの先色々なことを手放すことになる。でも、手放す代わりに新しいことに挑戦して、その新しいことにも挫折するかもしれないけど、そういう体験を積み重ねていって、またこれまでとは違った道を歩むことになるのだろう、と思った。
これまでのわたしは固執していた。周囲の、一般的な、母というものが、加えてわたしの母が、子どもを持つことであきらめざるを得ない、そんな風に見えることが度々あって、わたしはそれが許せなかった。だから、絶対にやめない、と固執していた。
現実は厳しかったのだ。
いまだに許せないけど、無理なもんは無理だった。出産直前まで味わっていた多幸感みたいなものは、出産直後に消え失せ(消え失せたって感じなのだ)、それどころか不幸感・絶望感・虚無感・喪失感に苛まれるようになり、でも目の前の命は生かさなくちゃならない。
ほとんどの育児を夫に託せるだけ、自分はマシな環境にいるんだ、だから頑張らなきゃ、と自分を追い立てたら、完全に病んだ。今も。ふとした瞬間にボロッボロ涙が出てきて自分でも引いてる。でも止められない。止まらないし。
気力も体力もない中で、これまでと同じことをやるのは無理になった。何度も思ってしまうが、無理な中で頑張っているお母さん方はいると思うし、「屁でもねーよ」タイプもいるんだろうな。世のお母さん方は大抵すごい。でも、わたしは「屁」。
どうなるんだろう、この先。家事も育児も苦手で、でも、体力も気力もなくて、人生詰んだな、これはやばいなと思ってボロボロ泣く毎日。傍目でみたら何もしてない。でも個人的にはめっちゃくちゃつらい。
こんな状態を続けて良いわけがないから、何かをやめるしかない。これまで大切にしてきた「書く・描く」をやめる。今はまだ勇気が出ないし、先の予定もあるから、はっきりやめると断言できないんだけど、これまでとは違う向き合い方に変える必要がある。これまでの向き合い方をやめる必要がある。
一体全体、何を書きたかったのか、訳がわからなくなってきているが、とにもかくにも、こんな自分を許しながら、“現実に合わせて柔軟に生き方を変えようとする”必要性を見出したんだ。本を読んで。
いたしかたなく、と、まだこれまでの人生に未練があるから、そんな表現をしてしまうんだけど、その“いたしかたなく”を許して、何かをやめようと思っている。