「ローン・サバイバー」戦争映画は時々見る。見なければならない。しっかり凹むために。

 

ローン・サバイバー

あらすじ

2005年6月、アフガニスタン山岳地帯。 現地の武装集団を率いるターリバーンの幹部の排除・殺害を目的としたアメリカ軍のレッド・ウィング作戦のため、アメリカ海軍特殊部隊ネイビー・シールズのマイケル・マーフィー大尉ら4名の兵士はヘリからロープで険しい山岳地帯に降り立つ。

彼ら偵察チームの目的は現地を偵察して無線連絡、味方の攻撃チームを誘導し、可能であれば目標を殺害すること。しかし徒歩で目標地点に到達した彼らは、思いがけず山中で山羊飼いの3名の現地人と接触してしまう。拘束した3名をどう処置するか、電波状態が悪く前線基地との連絡が取れない中、止むを得ず彼らは作戦を中止し、ターリバーンとの交戦を覚悟の上で3名の現地人を解放する。

引用元:ローン・サバイバー - Wikipedia

この選択が、ネイビー・シールズ史上最大の悲劇を生み出すことになる。

 

英雄の物語に見えるが、戦争の残酷さは変わらない

戦争映画は難しい。

きっと「映画」として撮るのも、「映画レビュー」を行うのも難しい。人が武器を手に取り、殺し合うのが戦争だ。近年は、人の代わりにAIやロボットが手を下しているようだが、いつだって「行為」には変わらない。

 

ローン・サバイバー」は、やはりどこか「生き残った英雄の物語」に見えてしまうため、万人受けする・万人の心に強く刻まれる戦争映画ではないと考えている。

 

でも戦争が生み出すものはいつだって変わらない

 

どちらを選んでも不幸になる気がする選択肢

偵察部隊として先に降り立った4人の兵士が目にしたのは、ターゲットの姿だ。しかし偵察部隊の4人は民間人に見つかってしまう。「敵に情報を漏らすかもしれない」切迫した状況で民間人を殺すか逃がすか考える4人。

4人の行った選択は、きっとどちらに転んでも最悪の展開になったことだろう。それが戦争なんだと思う。

 

彼らは窮地に追い込まれるが、彼らを助け出そうと行動を開始する軍に課された「選択肢」も残酷だ。攻撃用ヘリがすべて出払っている状態での救出作戦は無謀なものだった。次から次へと不幸に追い込まれる。

冷静さを欠いた選択したものもあれば、冷静さを維持して選択したものもある。でも訪れるのは窮地や不幸ばかりだ。

 

「あの時こちらを選んでおいてよかった」なんてことが、きっとどの選択肢を選んでも起きなかった。民間人を殺す・逃がす。攻撃用ヘリなしで救助に向かう・他の案を練る。

 

壮絶な銃撃戦がみどころ

劇中、4人の兵士は200人の敵に囲まれる。そこから始まる壮絶な銃撃戦が、この映画のみどころだ。敵は無差別に銃を撃ってくる。兵士は狙いを定めて的確に撃ち殺す。

このシーン、彼らは「目の前の敵を殺す」ことに集中している。彼らがやっていることは、方法は違えど全く同じことなのだ。

この銃撃戦は、映画という娯楽として観ている最中、急に戦争の残酷さを思い返させる壮絶さがある。戦地に駆り出された人たちの息づかいを感じる。

 

正しい戦争映画の終わり方は何か

なぜか「ローン・サバイバー」は、あらゆる戦争映画と名を連ねて、わたしの頭の中に残っている。それは決して肯定的な理由ではない。

正しい戦争映画の終わり方とは何だろうと考えさせられるラストである。

正直、わたしは好きではない。

 

「わたしが戦争と直接関わったことがない」のが原因だろう。

 

味方の兵士が敵を殺し、主人公を助け出す時、「何も解決してないじゃないか」と感じてしまった。これは「わたしの観たい戦争映画」というエゴでもあるが、戦争はなにも生まない。勝ち負けなんてない。

どこか「果敢に戦った1人を救い出しました!」という美談にしか見えないのだ。戦争を強く肯定するような描写はないものの、「英雄が起こした奇跡」のような終わり方にしか思えなかった。

 

それでも「戦争映画」だ

どこかミリタリー好き・戦闘シーン好きが歓喜するような「娯楽色」の強い1本にも感じるが、それでもこれは「戦争映画」だ。少しも戦争が肯定できない、恐ろしい物語である。

 

なぜかわたしは、この映画を夫とクリスマスイブに観たのだが、クリスマスイブという平和の象徴な日に観たのがまた良かったのだろう。

「戦争映画」や戦争を伝えることについて、考えさせられる映画だった。

ぜひに。