私がつくるものはある人から見ればゴミで、私がやっていることはある人から見れば無意味なこと。

昨日、武蔵野美術大学通信教育課程とは別に通っている絵画教室で講評があった。全4〜5回の授業で作品を1枚完成させ、1クール最終日に講評を行う。先生の意向でコンクール形式がとられており、先生と他のクラスの先生、助手、そして私たちは1人1票、気に入った作品に投票する。

今回は票がばらけ、1番目に多い票数と2番目に多い票数が複数人に入った。私は2番目に多い票数だった。

投票結果に対して、というより、このコンクール形式の講評に向けて、真剣に作品制作に向かっているからこそなのだが、今回の結果がものすごく悔しくて、正直、ちょっと、一瞬、教室で泣きそうになった。

絵画表現に限らないけれど、何かに真剣に取り組んでいるとき、その結果が芳しくないと(それは票数だったり、公募展に落選することだったり、誰からも関心を得られていないことに気づいたときだったりする)素直に悔しいし、悲しい。

それで、普段だったら、この絵画教室でのたった4時間の授業がバカみたいに疲れるので、家に帰るともう何もできずにヘロヘロなのだが、自分自身を奮い起こして、作品に加筆を施した。自分が納得いくまで描くと決めた。

翌日、すなわち、これを書いている今日も、午前中に書き仕事をした後、絵を描いている。あまりにも悔しかったから、描き直して、一旦手を休めて、改めて見直して、修正すべきところに手を出して……を繰り返して、ようやく“自分なりに”納得できる1作ができた。

納得できていない作品が順番を待つ。

私は“自分なりに”納得できるまで描き続ける。

正直、とてつもなく心がかき乱され、「うまくいかない!」と泣きたくなることの方が多いが、ここのところ、頭の中が何をしていても絵画制作につながってしまうことを考えると、私は相当、絵画が好きなのだなと思う。

とはいえ、作品を評価するのは私ではなく、例えば公募展なら審査員が、個展やグループ展やイベントなら足を運んでくれた人が決める。

だから、私e-taxが苦しんで苦しんで苦しんで描いた絵は、ある人から見ればただのゴミである。

直接言われたわけではないが、私の身内は、私が公募展で入賞したことを告げると「で、いつ絵を描くのをやめるの?」と言っていた。絵を描くという行為に価値を感じない人にとっては、私がやっていることは無意味なことである。至極当たり前のことではある。それなりに傷ついたけど。

けれど、それが現実なのだとも思う。

それが現実なのだが、どうしてもやめられないし、多分、どんなにそれが世間的に見て全く役に立たないことであっても、私はそれしかできないのだ。まあ、その世界の頂点に立つ人から見れば、それすらろくにできない人と評されることだろうが。

厳しいなあ……

と思いながら、描く。

とにかく描く。書く。その最中、私がつくったり、やっていることに対する、“私にとっては”心ない言葉に聞こえる声が頭に響く。

ただのゴミ。

無駄。無意味。

いつ辞めるの?

「うるせえ、バカ。◯ね」と思い切り罵りたい気持ちが膨れ上がるときもあるが、私にはそれができない。強い言葉になぜか私が傷つくし、相手が嫌な気持ちになったらどうしようと思うし、そもそも何を言っても響かない相手から言われていたりする。どうしようもない。言われっぱなしになる他ないことの方が多い。

それでもやめられない。

やめたくない。

傷つくから、とか、仮に「本当に無意味だから手を止めてみるか」と自分を納得させたとして、残るものは何もない。私が今まさに向き合っている「描く・書く」を取り除いたとき、残るものは何もない。

だからやめるわけにはいかないし、何も残らなくなるのが嫌なので、かく。

“ある人から見れば”ゴミで、無意味なことを、私はやってるんだな〜と改めて思ったっちゅう話でした。

 

文化・芸術は難しい。人の心を豊かにするはずなんだけど、ここ最近のニュースを見ていると、人も世界もギスギスしていて、お前なんかいらないって言われている気がした。それどころじゃないって。それが悲しかった。