はじめに
いつか書こうと思っていた内容である。
またブログ紹介企画でお知り合いになったnenemama(@nenemama2017 )さんとの会話がきっかけで書くことにした。
おわー!内臓アート見ていただけてうれしいです、ありがとうございます!!!
— Kho_K@Writer/Blogger/Painter (@Kho_TOKYO) 2018年6月4日
お子さん、絵がお好きなんですね✨絵に限らず、好きなものはとことんのびのびやってもらうことを個人的におすすめします😆
わたしも絵を好きになったきっかけがちゃんとあるのでブログで書きます!!!
待ってます~
わたしは今、ライター・ブロガー・画家の3足のわらじを履いて活動している。
まあお仕事なので、「月収どのくらい?」と聞かれることもある。みんなの期待に応えられるほどの額ではない。平均月収10万円。
世間的に見て「それ、どうなん?」って思う人もいるかもしれんが、わたしはわたしを生きていて、それが最高に楽しいのでオールオッケーである。
「楽しそうだね」と言われれば、ザッツライトである。
今回は、そんなわたしの大好きな「かくこと」が、結局仕事になっちゃうまでを話す。
- 前半:大好きなことが仕事になるまで
- 後半:好きでい続けるためにはどうすべきか
という内容でお送りする。
誰かのお役に立てれば幸いです。
かくのが好き→仕事まで
小さな頃の遊びの記憶
わたしは一人っ子で、両親は共働き。家でひとり遊びをしている記憶が色濃い。両親譲りの人見知りで、近所の同年代と遊んだ記憶もなくはないが「楽しかった」かは定かではないね。もじもじしてたやも。
んで、好きなことは
- お絵かき
- 読書
- お人形遊び
- 妄想
とまあキングオブひとり遊びである。
そんなわたしは幼稚園から小学校へあがってもキングオブひとり遊びに徹する機会は多く、友達と遊んでいたとしても、頭の中はどこかマイワールド全開であった。
かくのが好き
「描くが好き」のスタートは幼少期、上記のキングオブひとり遊びのおかげである。
一方「書くのが好き」は小学校〜高校までの学業が大きく影響している。
- 美術
- 理科
- 国語
が好き&得意科目だったわたし。
※正直他の学業は苦手というより興味がなく、それ故に先生に対して生意気をやり、目を付けられ、ひとりだけ別室で叱られるなんて嫌な思い出もある(両親には未だに言っていない)。
特に「書く」きっかけとなった国語は、作文や考察問題が好きだった。
ただしここで重要なのは「文章がものすごく下手だった」ということである。「好き」と「うまい・へた」は別物なのだ。
かくことが心の支えになった
中学校にあがるといわゆる厨二病を発症し、太宰治や夏目漱石「こころ」の主人公に苛立ちながらも同じような内容の小説を書き始める。
友人と、今でいう同人誌のような、漫画の主人公と自分の名前を登場させたエロ小説も書いた(青いね!!!)。自分の世界にどっぷりはまりこめることを知り、ず〜っと書いていた。授業中、物語のあらすじを考えていたことも。
「描く」では、美術の授業で受けた「自分を表現する抽象画」が楽しかった。担当教諭とは険悪な仲になってしまうのだが※、他の先生の授業で、厨二病全開の絵を自由に描かせてもらった時、「わたしにはこれしかない」と本気で思った。
※先生に生意気をやり、出展予定の美術展参加を取り消されたことがある。わざわざ一人で呼び出され、絵をけちょんけちょんにけなされた後「だから、出すのやめるわ」と言われる。虚しい。
わたしのかく能力は「上手<下手」
もちろん、文章能力も画力も「神童」と呼ばれるようなことは一度もなく、むしろわたしよりも文才、絵の才能がある子はいっぱいいた。わたしは中の中、否、中の下か下の上レベルである。
かいてもかいても、見向きされないことのほうが多かった。
でもわたしはなぜか「かく(書く・描く)こと」をやめなかった。
わたしは今の仕事に落ち着くまで、分かりやすく「うまいね」なんて言われたことは一度もない。自分でも驚くが、本当にただ好きなだけでやってこれたのだ。
※もちろん、両親は褒め続けてくれた。だから両親の存在って強いのかもしれない。親バカだったのかもしれないが、ありがとね。娘はかくことが大好きなまま生きてますよ。
執着が仕事につながった
「好き」というより、これは「執着」かもしれない。
演劇研究部時代、つくったチラシデザインがNGをくらっても「わたしはこのデザイン好きだから、まあいっか」と投げ出すことはなかった。公募展のためにせっかく描いた絵が落選しても。自分の文章が相手にされなくても。
思えば会社員時代、その執着を一度に手放してしまったのが、心身の健康を崩した理由かもしれない。会社員時代、書くことも描くこともしていなかった。
休職し、クラウドソーシングと出会ってからは、今に到るまでずっと何かを「かいている」。
わたしにとって「好き」であることに違いないが、仕事につながった理由は「執着」なのではないだろうか。
「好き」な気持ちを持ち続けるために
のびのびやる
「好き」が研究や仕事に結びつくためには、「好き」でい続ける必要があると考えている。
「好き」が嫌いになった瞬間、それに向き合い続けることは非常に苦痛だからだ。「好き」でい続けるために、わたしは「のびのびやる」ことをおすすめしたい。
幼少期の絵の話だとわかりやすいのが「こうしたらいいんじゃない?」というアドバイスだ。そのアドバイスを受けて「アドバイスありがとう。そうするね」と素直に受け取ってはダメだと思っている。
自分が思うまま、描いてほしい。
もちろん、アドバイスに従ったほうが理にかなってるなら、そのまま実行するのはアリだ。でも「こう言われたから」「〇〇さんに言われたから」などは理由にならない。
なお、そのようなアドバイスより、幼少期のわたしが嬉しかったのは
- 「面白いね」
- 「これはどうなってるの?」
と絵に対して興味をもち、テーマを気にしてくれた大人の存在である。
楽しんでやっていることを、そのままやらせてくれた大人のおかげで今のわたしがいる。
とはいえ、少々それを喜びすぎて頑固になったわたしは、誰からのアドバイスも聞かない生意気クソ問題児になったとも言えるが、それを把握したうえで接してくれる友人・大人しか周りにいないので・・・良しとしている。
嫌いになりそうなら、やめる
そしてわたしは「書く・描く」ともに嫌いになりそうになった時、潔くそれをすることをやめた。「好き」を「嫌い」になることはとてもつらい。
「嫌い」になる前に、距離を置いた。
ずっとかいているわたしにも、「書く・描く」に向き合えない時がある。苦痛で仕方がない時がある。これ以上やったら、好きに戻れない感覚がある。そういう時はやらない。
わたしは「好きになれそうだったけど、無理矢理やって嫌いになったもの」がたくさんある。ピアノ、勉強、体育の授業、女っぽくあること・・・。大人になった今では「仲直り」できたものもあるが、そのブランクは大きい。
今まで大好きだったのに、ちょっと方向を間違えて「これでいいのか」と疑問を持ち始める・・・なんてことは往往にしてある。そんな時のために、「続けない」という選択肢を提案する。
今生の別れはさみしいんだもの。
評価も大事だけど一番に気にする必要はない
「うまいね」「〇〇になれるよ」「天才」などなど。お褒めいただけるに越したことはないが、評価を一番に気にする必要はないと考えている。好きでい続けるためには。
ちなみに「評価がなくとも強くあれ」ってな話でもない。
わたしの場合、記名記事や公募展への入選、お客様から言われた「好きです」の言葉を無下にすることなどできない。むしろステータスをあげるために大事だ、めちゃくちゃありがたい。
でも、一番大事なのは「わたしはこれが好きだ」という確証をもつことなのではないだろうか。
好きを恥じる理由はどこにもない。
誰がなんと言おうと「わたしはこれが好き」でいいじゃないか。
どんなに周りから
- 「こうしたらいいのに」
- 「下手」
- 「これ売れるの?」
- 「デッサンが狂ってる」
- 「もっと学ぶべきだ」
などと言われ、確かにそれが事実だったとする。
でも、
- 肯定してくれる人の存在
- 自分の信念
があれば、「好き」を極めることができると思うんだ。
わたしは多分死ぬまでかく
最近は
- 書くためにパソコン
- 描くためにキャンバス
に向き合う日々が続き、運動不足だ。
決して健康的とは言えないが「好きなことを仕事に」の代表例と言っても過言ではなかろう。
ただし、皆が思っているようなきらめきはない。
稼ぐんだったらリーマンのほうが稼げるし、社会性をもう少し身につけたほうが「生きるの楽なんだろうな」と思いながら生きている。好きなことから生き方を導き出したいなら、かなりの覚悟が必要である。
わたしの場合、未来のことは誰にもわからないが、今現在「かく」以外の生き様が想像できない。ので、多分、死ぬまでかくんだろうな。かかざる得ないんだろうな。こっから部下を引き連れて仕事をバリバリこなすキャリアウーマンにはなれんだろう・・・。
でもこれは「執着」レベルにまで達した「好き」を
- 受け入れる
- 継続させる
- 全力で愛を注ぐ
からこその現在である。
やっぱり「好き」の力はすごいのだ。
はじめての「好き」を、いつまでも愛したいもんだね。
では。
◆本日の一冊+α◆
絵の話から書こうと決めた記事なので、絵に関する本をいくつか。