※2018年6月15日更新
おっぱいがあってよかったことなんてない。
そう思いながらもわたしは女で、それがどんなに嫌だと感じていても、誰がどう見たって女であることは覆せない。
女の体に生まれてよかったこと、ある?
わたしはない。
わたしが自分の身体で好きなのは、骨張った顎回りとがっしりとした肩。
かつては「周りの女子から見ると、全然女っぽくない」とコンプレックスを抱いていたこともあったが、「女っぽくないことが嫌なのではなく、女である自分に疑問を抱いている」ことに気づき、そこからはお気に入りの部位である。
丸みを帯びた体が好きじゃない
女性と男性の身体的特徴を比べると、女性は圧倒的に「丸み」を帯びている。わたしはそれが好きじゃない。
丸みを帯びているだけで、女性らしさが生じる。わたしがどんなに自分の好きな骨ばった部位を強調しても、全体的に丸みを帯びた体が「わたしは女」と主張してくる。それが好きじゃないのだ。
好きな洋服が着れないのが悔しい
わたしが着たい服は、ジェンダーレスな、むしろ男性的な洋服である。しかし先述した丸みを帯びた体が、その着たい服の邪魔をしてくる。
しっかりと主張のあるおっぱいのせいで、大好きなロックバンドTシャツが着れなかったのが悔しかった。ボーカルの顔のプリントが、おっぱいでゆがむのが許せなかった。
手軽に触れられるのが許せない
おっぱいが好きな人だらけれはないことは知っているが、その柔らかさに惹かれ、触れたくなる人も少なくないだろう。しかし恋人であっても(むしろ見知らぬ人のそれに触れたら置換である)、手軽に触れられるのだけは許せない。
たかがおっぱいごときで、相手の機嫌を左右できるのが好きじゃないのだ。
恋人だから妻だからと、手軽に触れてくることがあるが、わたしにとってデリケートな部位なのだ。自分の性に悩んでいる人にとって、おっぱいに限らず、体というのはデリケートな部位なのだと理解してほしい。
「エロい」と言われた過去が嫌だ
わたしはアセクシュアル(無性愛者)ではない。だから「エロい」という考え自体を否定する気はない。が、「エロい」と言われた過去が思い出されるたび嫌になる。
こちらが色気を意識したわけではない。服装でおっぱいが主張されたから・おしりが主張されたから、というだけで「エロい」と言われたのだ。その記憶が思い出される度、嫌悪感に襲われる。
男になりたいわけではない
だからといって、男になりたいわけではない。
ヒゲを生やしたり、男性器がほしいわけではない。おっぱいがあってよかったことがないだけで、完全に男になりたいわけではない。
なお、わたしの性的・恋愛対象は男性で、それもまたこの悩みをよりいっそう深める原因になる。
中学生時代、自分のおっぱいが成長していくのが嫌で仕方なかった。おっぱいが女性の象徴になることを知って、恐怖を抱いていた。だから認めたくなくて、中学から高校までスポーツブラをつけ続けた。おっぱいが小さくなると思って。
でも高校にあがり、女性をイキイキと楽しむ友人達に出会い、一緒に下着を買いにいった時に少し諦めた。おっぱいは大きくなっていたし、女であることを楽しむ友人達の近くにいると、女である自分を楽しまないともったいないような気もして。
それでもずっと「おっぱいがあってよかったことなんてない」と考えている。
女であることに間違いはないけど
「女だから」ではなく「1人の人間」として向き合われている体験が今後増えるといいなと感じている。会社員時代は少し「女だから」という空気が強すぎた気がして、息苦しかった。
女であることに強い嫌悪を抱いたのは、痴漢の存在である。
その痴漢は、本屋で立ち読みをしていた時、わざわざ本棚とわたしのわずかな隙間を通り抜け、通り抜ける時に腕をおっぱいに押しつけるという痴漢行為を2回もした。痴漢行為そのものも気色悪かったし、虚しくなった。
彼は相手が「女だから」やったのであって、彼の中に女性の体に対する何らかの思想があったからやったのだ。それっぽっちの情けない行為のために、人を不快にさせてまでおっぱいに触れたいその痴漢を哀れんだ。
おっぱいを持って生まれた自分の体のことも哀れんだ。
「おっぱいがあってよかったこと」なんて、私にはない。
では。
◆本日の一冊◆
痴漢行為などの過去は、いまだに悔しいし嫌な気分になる。
でもこの本のおかげで、「自分の性」には決着をつけることができた。