これまで何十冊もの小説を読んできたが、繰り返し読んでも飽きることのないお気に入りの作品の中に『きことわ』がある。読む度に夢か現か分からなくなるのが面白く、何度も何度も読んでいる。
主人公は貴子と永遠子。葉山の別荘で同じ時間を過ごした貴子と永遠子は、別荘の解体をきっかけに25年の月日を経て再会する。ふたりに共通しているはずの思い出は、ときにかみ合い、ときに食い違う。記憶と時間、夢と現が交錯しながら物語が進む。
私がこの物語を読んで、夢か現か分からなくなるのが面白いと感じるのは、私がよく夢を見ること、そしてそれが夢なのか現実なのか分からなくなるほど妙に生々しい内容ばかりだからだと考える。
佐久間保明『文学の新教室』(ゆまに書房、2007年)によると、“文学では享受者自身の精神世界にしか芸術は実現しない”うえ、個人によって享受の差が大きいために、たとえ同じ作品を読んでも、文学的経験には個人に特有の独自性が生じる、とあった。
同書では、ある作品で味わう感動はそれを読んだ読者に固有の想像力の働きであり、その想像力はその読者の人生や精神世界の反映があるはずだ、とも記されている。
『きことわ』は“永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない。”の一節で始まるが、私もまた永遠子のように夢をみる。私も夢をみるからこそ、夢というモチーフを難なく自分のものとして楽しめているのだと感じている。
そして私が夢をみることに加え、この作品で描かれる夢の生々しさ、覚めても覚めても夢が続く描写、永遠子と貴子の記憶や時間までもがまどろみのように溶けていく様が、夢と現のみならず、この作品と読者である私、小説と現実との境界を曖昧にしているように感じている。
たとえば、永遠子が25年以上前の夏休みの記憶を夢としてみる場面で、“隣で眠る貴子のしめった吐息が首筋にかかるのも、自分が乗っている車体をとりまくひかりも、なにもかも夢とわかってみていた”とある。何気ない一節ではあるが、永遠子より7歳年下の貴子の“しめった吐息”に幼ない子どものそれを思い出し、“車体をとりまくひかり”は幼い頃の自分が車内で眠っていたときに瞼の裏で感じていたひかりを思い出した。何より私も「夢とわかって」夢をみることがある。すんなりと自分の経験が呼び起こされたことで、私はこの作品にグッと引き寄せられた。永遠子でも貴子でもない私がごく自然に物語に溶け込むのを感じ、驚いたことを覚えている。
それから覚めない夢のリアルさにも驚かされた。永遠子は夏休みの記憶を夢として見た後、雨の音を耳にしてはっと起き上がるのだが、雨に濡れた洗濯物をとりこんでもとりこんでも置いたはずの洗濯物がふっと消えてしまう、そんな夢を繰り返しみることになる。私は永遠子と同じような夢をみたことがあるから、永遠子の経験はとてももどかしかった。現実の音を聞きながら夢を見たことがあるならば、数ページにわたる覚めない夢にじれったい気持ちになるだろう。
物語が進むにつれて、夢の内容は現実味の強いものから夢でしか味わえないようなものへと変わっていく。特に作中に登場する“髪”の描写は印象的で、物語後半には“貴子の頭髪はなにかに引きつかまれ、廊下の後ろへと、髪はいきおいよく伸びているようだった”や“廊下が頭髪に埋もれてゆく”など、現実にはありえない描写が増えていく。実はこの場面、夢をみない貴子が味わった体験で、夢とは明言されていない。しかし物語中盤から終盤にかけて、すでに永遠子と貴子の記憶や時間が曖昧になっていること、また“髪”にまつわる描写が夢にも彼女たちが過ごす現実にも巧みに組み込まれていることから、夢をみない貴子がみた夢のようにも、現実では起こりえないことが起きた現実のようにも思える。“髪”に関わる表現は、読む人自身の想像力で如何様にも捉えられる。『文学の新教室』で解説されていた文学的経験を振り返りながらこの作品を読むと、この作品が文学という芸術を体現しているように思える。
私自身が夢をみるからこそ、この作品のやわらかな文章が紡ぐ、記憶や時間が混ざり合う感覚、夢と現が交錯する感覚を、まるで自分のもののように楽しむことができたのだと思う。
が、夢をみない人でも十分楽しめる作品だ。というのも、夢をみない貴子の視点から描かれる物語は、夢を描く記述とは異なり、物語内の現実世界が明瞭に記されているため、二人が過ごす葉山の風景や再会の様子がはっきりと頭に浮かぶ。夢を題材にすると、夢だからこそなんでも描ける反面、ナンセンスに感じることがあるが、この作品は貴子の視点のおかげで、夢を題材にしながらもちょうどいいバランスが保たれている。
※この記事は、私自身が武蔵野美術大学通信教育課程に在籍中に書いたレポートを編集したものです。