生きていかなければ!チェーホフ著・神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』(新潮社・1967年)

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

この戯曲を読み終えたのは2020年より前だったかもしれない。映画『ドライブ・マイ・カー』の記事を書くことになり、その参考資料としてこの本を購入した。

きちんと目を通すのは初めてだったが、大学生時代お芝居をやっていたこともあり、「かもめ」は知っていた。

 

「かもめ」も「ワーニャ伯父さん」も読んでいて、さみしく、切なく、苦しい気持ちになる。年々、「ワーニャ伯父さん」の終わりが心に染みるようになってきた。

「かもめ」は、主人公の若い2人、女優を志すニーナの夢見る姿と終盤近くの変貌、作家を志すトレープレフのうわすべるような芸術感の虚しさは、表現を志した経験がある人なら理解できるであろう、特有の痛みに満ちている。読んでいて心がヒリヒリする。恥ずかしさと悔しさと、急に我に返ってしまって作り上げたもの全てがこっぱずかしくなるような感覚があって、私には痛い戯曲である。痛みを伴う芝居である。

「ワーニャ伯父さん」のむなしさもすごい。失意と絶望がたたみかけてくるような後半。ワーニャ伯父さんとその姪っ子ソーニャに肩入れして読み進めると、周囲の彼らへの仕打ちにとにかくむなしくなる。懸命に懸命に働き続けた者が報われない、こんなことがあっていいのか!とむなしくなる。けれど彼らは生きる。

彼らは生きる。

生きるが、決してポジティブに描かれるわけではない。けれど生きる。働いて生きる。死で終わらない描写は妙に説得力がある。死(自殺)よりもよっぽど悲劇的で、けれどそれがごく当たり前であることを突きつけてくる。凄まじく現実的。でも、少なくとも私は、変に励ましの言葉をかけられるよりも、生きる気力が湧く作品だと思った。

終盤のソーニャの長台詞が心を打つ。

でも、仕方がないわ、生きていかなければ!ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるともしれない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たちーーほっと息がつけるんだわ。

出典:チェーホフ著・神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』p.238-239(新潮社・1967年)

「かもめ」も「ワーニャ伯父さん」も感情的な場面が多く、登場人物の声色がイキイキとして感じられるような戯曲である。けれど、ふとした瞬間に心がひんやりする。なぜだろう。生身の人間が感じられるような熱がありながらひんやりする。

多分それは描かれている失望や絶望のせいだろう。

人間の芝居だと感じた。