『ジョーカー』/ジョーカーへの変貌、その闇から見出さなければならないこと

【映画パンフレット】ジョーカー JOKER 監督 トッド・フィリップス

 

観賞中、ジョーカーの虜になっていくのを感じた。

ジョーカーの精神科医だったハーリーン・クインゼルがジョーカーの虜になり、ハーレイ・クインへと変貌してしまったように、映画館にいたほとんどの人が、主人公アーサーの心の闇に触れることで、ジョーカーに惹かれていったに違いない。

 

※ネタバレが含まれます。ネタバレNGの方は、鑑賞後にお読みいただけると幸いです。

 

 

ジョーカー

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出典元:https://twitter.com/jokermovie/status/1180233689214550016/photo/1

 

コメディアンを夢見る、孤独だが純粋で心優しい青年アーサー。一人の“人間”が、なぜ、狂気溢れる“悪のカリスマ=ジョーカー”に変貌したのか?

引用元:映画『ジョーカー』オフィシャルサイト

 

あらすじ

「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを夢見る、孤独だが心優しいアーサー。

都会の片隅でピエロメイクの大道芸人をしながら母を助け、同じアパートに住むソフィーに秘かな好意を抱いている。笑いのある人生は素晴らしいと信じ、ドン底から抜け出そうともがくアーサーはなぜ、狂気あふれる<悪のカリスマ>ジョーカーに変貌したのか?

引用元:映画『ジョーカー』オフィシャルサイト

 

アーサーとジョーカー

 

ホアキン・フェニックス演じるアーサーがジョーカーへと変貌すればするほど、「いつだってネガティブだよ」と返事していたアーサーの暗い目が美しいほどに澄んでいき、鬱屈した感情を抱えていたはずの男が優雅で自信満々になっていく。

その姿はとても魅力的で、どんどん自分がアーサー=ジョーカーに惹かれていくのを感じた。

しかし実際には、それは「変貌」というより、抑圧された人生を生きる中で存在意義を見つけた男の中にあった「種」が芽吹いてしまったようにも見える

公式サイトのあらすじには、心優しい一人の“人間”が“悪のカリスマ”へ変貌する姿が描かれるとあるが、映画を観ていると、それはところどころ間違っているように思える。

アーサーは“人間”でいられたはずの人だ

だが同時に、「はじめからジョーカーだったんじゃないか」とも思わせる

映画序盤、ソーシャルワーカーとの面談で「あなたがなぜ入院させられていたのかわかる?」と言葉をかけられると、真っ白な部屋で真っ白な服を着させられ、ドアに頭を叩きつけるアーサーの背中が映し出される。

たった数秒のシーンだが、映画終盤まで強く印象に残るシーンだ。

映画で語られるアーサーの過去は、出生の記録だけだ。「出生から幼い頃にあった出来事」と「現在」までの間がすっぽり抜けている。すっぽり抜けている間で唯一分かるのは、何らかの理由で入院させられたアーサーが壁に頭を打ち付ける姿だけだ。

でも、たったそれだけで、序盤の真っ白な部屋で見せたアーサーの行動だけで、彼の心の奥に潜む暴力性は理解できる

ジョーカーの「種」は常に彼と共にあったのだと

それでもアーサーは、社会にはびこる闇に晒されながらも必死になって存在意義を求めようとしていた。

一生懸命ピエロの仕事に励む姿がそれを物語る。ピエロ姿の彼はゴッサムシティの若者たちに暴力を振るわれるが、その後、病院にいる子供たちのためにピエロの姿をする姿からはジョーカーの「種」が感じられない。アーサーとして、真っ当にピエロの仕事に務めている。

そのときにうっかり落とした拳銃がきっかけでアーサーはクビになるが、拳銃を落としたときもピエロとしておどけてみせ、子供たちを怯えさせなかった姿は、“人間”でいられたはずのアーサーである。

ただ、手渡された一丁の拳銃がきっかけで、ジョーカーの「種」は芽吹いてしまった。

暴力を振るってきたビジネスマン3人を殺したアーサー。

1人目の顔面を吹き飛ばした後、1人、また1人と確実に息の根を止めていくアーサーの顔はまだジョーカーではないように思えたが、アーサーでもなかった。潜んでいた狂気がそのままむき出しになった顔。

1人目を撃って立ち上がり、確実に殺そうと銃口を向けるアーサーの姿は堂々としていて、「ビジランテ(私刑人)」ともて囃されるのも無理はないほど魅力的だった。

ただし映画終盤で、「はじめからジョーカーだったんじゃないか」と思わせる台詞が語られる。アーサーはビジネスマン3人を殺した理由は「音痴だったから」と明かした。

この台詞でわたしはゾッとした。

アーサーだと思っていた人物は、はじめからジョーカーだったかもしれないのだから。

 

緑色の髪の毛

今作を鑑賞後、アーサーは最初からジョーカーだったのではないかと考えているわたしだが、「自ら」ジョーカーへと変貌したのは、髪の毛を緑色に染めた瞬間だと考えている

光が差し込むシーンが少なく、アーサーの髪色は黒色に見えることが多かった。しかしアーサーが自分の出生を知った後、入院している母親と対峙するシーンで、彼の髪の毛が赤色であることが分かる。

母親によく似た赤色。ただ、母親とアーサーには血縁はなく、母親がアーサーに話していた内容も虚言だったことから、彼にとって赤色の髪は忌まわしいものだったに違いない。

「赤」の補色は「緑」である

人とのつながりを求めていたアーサーは、誰ともつながることができなかった。唯一のつながりだった母親の言葉がすべて嘘だと知ったとき、アーサーは自らの手で母親を殺し、全てのつながりを絶ってしまった。

髪を緑に染め、今までのピエロメイク以上に派手なメイクと、はっきりとした色合いのスーツに身を包んだアーサーは「失うものなんて何もない」と言った。

ジョーカーのアイコンとも言える出で立ちへと変貌したアーサーは、愉快犯として悪名高いジョーカーとしては未だ完成していなかったが、芽吹いていたものは確かに育っていた。

 

完成されたジョーカー

警察に追われ、地下鉄に逃げ込んだジョーカーは、目の前で起きた殴り合いを見て楽しそうな顔をした。電車内が荒れ狂う中、楽しそうに逃げ回るジョーカー。警察が暴徒化した市民に襲われる姿を見て、彼は得意げにおどけてみせた。

コメディ・ショーでジョーカーは司会者を撃ち殺した。悲鳴が飛び交うスタジオで陽気に踊り出すジョーカー。テレビの向こうでは、「ビジランテ」であるジョーカーを支持する市民は暴動を起こし始める。その様子を警察車両から眺めるジョーカーは、子供のように無邪気な笑顔を見せる。

警察から「街が燃えてるのはお前のせいだ」と言われたジョーカーが発した台詞は、ジョーカーとして完成されていた。

 

「美しいだろ」

 

ホアキン・フェニックスの変貌

この恐ろしくも魅力的な男を演じ切ったのがホアキン・フェニックスだ。

監督トッド・フィリップスははじめからホアキン・フェニックスを起用することしか考えていなかったようだ。過去、さまざまな俳優がさまざまなジョーカーを演じているが、今まで描かれてこなかった「ジョーカーがジョーカーになるまで」を描くには、確かにホアキン・フェニックス以外には演じられなかったかもしれない。

ホアキン・フェニックスの恐ろしいところは、アーサーからジョーカーの「種」を感じさせながらも、確実に変貌してみせるところだ

アーサーとしての立ち姿はどこか不気味だ。ヨレヨレとしていて、年齢よりも老けて見える。顔は常に俯いていて、自ら進んで人と目を合わせようとはしない。自信がないというよりも前向きに生きる気力がない、ないに決まっていると言わんばかりの絶望に満ちていて、その姿に同情し、手を差し伸べたくなる。

だが、絶望に満ちた彼に手を差し伸ばそうとすると、狂気の「種」が見え隠れする。ソーシャルワーカーとの会話やテレビのニュースを見ているときの貧乏ゆすり。ピエロ派遣会社の上司に怒られた後、人に見えないところで怒りを爆発させ、物に当たる姿。

アーサーが何を考えているのか、次にどんな行動を取るのか、ホアキン・フェニックスの演技はそれを予期させてくれない。その演技が、アーサーに手を差し伸べようとする観客の心をくじく。アーサーの狂気に飲み込まれるかもしれない、底知れない恐怖が人々の優しさを遠ざける。

ビジネスマン3人を殺した後、あんなにも弱々しかったホアキン・フェニックスからは色気が溢れ始める

存在意義を見出し、存在意義の邪魔になるものを断ち、鮮やかな化粧と衣装をまとったアーサーは、気づいたときには優雅で堂々たる「道化師」になっていた。

 

ホアキン・フェニックスの背中

ホアキン・フェニックスの背中を追うショットが多い。ホアキン・フェニックスの圧倒的な演技力によって、その背中だけでアーサーからジョーカーへと変わっていくのが分かる。

ヨタヨタと弱々しい背中をしていたアーサーが、セカセカとその場を去るようになり、気づけばスポットライトを浴びて堂々と舞台にあがり、最後には市民を扇動するほどの背中になる。

背中のショットだけを集めたとしても、今作の物語は理解できるはずだ。

 

ホアキン・フェニックスの目

ホアキン・フェニックスの目が、手を汚せば汚すほど澄んでいくのも恐ろしかった

アーサーにとってジョーカーになることは、変貌ではなく浄化だったのかもしれない。俯きがちだったアーサーの目線は、ビジネスマンを殺し、母親を殺し、同僚を殺す中で前を向いていく。淀んでいた目が澄んでいく。

底知れない闇は美しいのかもしれない。

 

描かれた闇の中から見出さなければならないこと

 

今作で描かれた闇は深い。

ジョーカーは最後、暴動を起こす市民たちの中心でショーの主役となるが、ジョーカーが生まれたきっかけは、弱者であるアーサーを面白半分で襲った市民であり、彼らもまた社会的弱者である

ジョーカーの「種」が芽生えるきっかけとなったビジネスマンらは、社会的弱者に目を向けようとしないどころか、彼らを見下す存在だった。結果として、アーサーは彼らを撃ち殺すことになるが、アーサーは社会的弱者と強者、その両方から暴力を振るわれた被害者だ

この映画の表面だけをさらい、社会に不満を抱える市民のヒーローとして「ジョーカー」を讃える人も現れることだろう。

しかし、それはとても危うい。

ジョーカーに魅了される気持ちは分かる。正直な話、わたしは暴力に取り込まれると思った。この世に対する「クソッタレ」という気持ちを晴らすのに、暴力性を露わにすることが役立つのではないかと思ったことを白状する。

だが、今作が描いた闇から見出さなければならないのは「誰かを思いやる気持ち」だ。

公式パンフレットに収録されたインタビューで、監督トッド・フィリップスはこう話している。

ー米国の問題、過激な価値観や暴力を描いているので、ある種の扇動に繋がると批判される可能性もありますが。

それはあくまで表面的なもので、僕達は、その奥底に何があるのか、そこに人々を導くものは何かについて議論されることを望みます。〜

確かなのは、僕達は「革命を起こせ」と言いたいのではないということ。けれども、人々が革命を始める理由を考えて欲しいとは思います。〜

あとは映画が皆さんの心に届き、世界中で思いやりが欠如していることについても語ってもらえると嬉しいですね。

あまりにも陰鬱で暴力に満ちた物語ゆえ、アメリカの映画館が警告文を出したという記事があった。

www.gizmodo.jp

この映画が引き金となり、銃乱射事件などの悲劇が起こるのではないかとも懸念されている

わたしは鑑賞後、この映画の表面だけをなぞった人々が、ハロウィンにジョーカーの仮装で現れ、悪の限りを尽くすことを懸念した。ジョーカーの魅力的な一面「だけ」に心惹かれた人々が暴走しないか不安になる。

もちろんわたしも、自分に言い聞かせている。

彼に共感したり、感情移入しても、彼にはなるなと。

アーサーを演じたホアキン・フェニックスのインタビューも一部引用するので読んでいただきたい。

ーこの作品が、今、上映されることにはどのような意義があると思いますか?

僕はアーサーの葛藤や不満を理解していますが、彼の戦い方は受け入れられません。彼の痛みは理解するけれど、やり方は決して正当化できない。僕達には人間として尊ぶべき道徳があって、世界が自分に良くしてくれないから戦争を仕掛けるなんてとんでもない考えです。

素晴らしい映画だったが、「これは映画である」ということを忘れずに観るべきだ

本作を鑑賞し、“世界が自分に良くしてくれないから戦争を仕掛ける”という発想に至る人はいないと言い切れない。少しでも社会に鬱屈とした気持ちを抱えていて、その解決策が得られず、苛立ちを抱えている人は観るのを避けるべきかもしれない

それぐらい、人の心を強く揺さぶる映画だったことに間違いはない。

忘れられない映画になった。

では。

 

◆本日のおすすめ◆

ホアキン・フェニックス自身の狂気を観るならこれ。(公式パンフレットにて複数のコラムニストが大絶賛)