成田悠輔という人物を知ったのはいつだったか。
欠かさず見ているテレビ番組、なんてものはなく、YouTubeもX(旧Twitter)も見たり見なかったりしていたものだから、いつ、どこで、どんな風に彼の存在を知ったのか全く覚えていない。
左右で違うフレームの眼鏡が印象的で、歯に衣着せぬ発言、それはやや過激で、でも感情の起伏が平坦な様がなんとなく好印象だった。だが、いつ、どこで、どんな風に、彼がメディアの前に現れるようになったのか知らなかった私は、彼が「何者」なのか一切知らなかった。
そこでここは、彼を少しでも「冷静に」知るためにも(メディアに映る彼に抱く印象以外の姿を知るためにも)、彼の著作を読もうと思った。
2022年6月、参議院選挙に向けた選挙活動が行われる中で書かれたものであることが「おわりに」から示唆される。
この本の主軸は「資本主義」と「民主主義」で、主に、これまで、現在、これからの選挙や政治のあり方について記されている。彼が提案する新しい民主主義は2023年末時点ではややSFに感じられるが、それはきっと、変化が生じるまでに時間を要する「民主主義」のせいでそう見えるのかもしれない。
「おわりに」で著者自身が言っている通り、“ただのビジョンすぎる”のは否めない。この本は、自己啓発書みたいに自分1人の考え方や行動で変化が生じるものではない。成田悠輔という人が描いたビジョンをじっくり楽しませてもらった、みたいなものだ。
それでもハッとさせられる指摘は多い。後半は特にドキドキする。
たとえば「第4章 構想」では、選挙なしの民主主義に向けた提案がなされる。
「無意識データ民主主義」は、通常の選挙システムに加え、反意識の行動言動、無意識の生態感知も民意データとして集められ、政策立案にいかされる。直接は見えない民意をさまざまなセンサーで読み取り、平均をとる。選挙を意図的に軽視するという発想が面白い。
民主主義や多数決といった考えが、少数派の声をやんわ〜りなかったことにしてしまうことがある(その可能性がある)以上、この方法が少数派の声を吸い上げてくれるのでは?と期待が高まった。
政治家はいずれ不要になり、ネコやゴキブリに置き換わるのではないかという主張はやや突飛なものに感じられたが、「ネコやゴキブリに責任が取れるのか」という問いへの“そもそも人間の政治家は責任を取れているのだろうか?”という回答が痛いところを突く。
私含め人には“生身の責任主体を求める発想”が根強く残っている。自動運転が進まないのも、責任を負うのが何か(誰か)がはっきりしていない(できない)から。でも著者の言い分を雑に捉えれば、著者は「そういう古臭いこり固まった発想を1回忘れてみない?」と提案しているのだ。
責任主体を求めること自体を考えない。
現実的ではない。
ただし、それは今だからだ。
もしかしたら、メディアでさまざまな人たちと討論を繰り広げる様と同じように、うまいこと言いくるめられているだけなのかもしれないが、それでも、私の中にない発想にぶん殴られる感じは貴重な体験だった。
成田悠輔はイェール大学の助教授、しかし続く肩書きや専門分野を見ると、馴染みがなさすぎて、結局何者かはわかっていない。でも、医者も人だから間違えるし、全員が善人なわけがないのと同じように、彼が何者かということより、自分とは違う人間の、想像もしなかったようなビジョンを知れたことを自分の糧にしたいなと思う。