表現する必要性はとっくのとうにないのかもしれないけど、私は表現を続ける。

ふとTwitterを眺めていたとき、私が尊敬する先輩が関わる舞台(演劇)のアカウントが出てきた。私はそれを時々眺めている。先輩のアカウントが呟くものも度々眺める。

お芝居はいいなあと今でも思う。

情報発信のために掲載された写真には、演じている役者さんたちの迫真の表情が切りとられていて、それはもう凄まじく魅力的なものである。すでに公演を終えたその芝居の内容を知らなくても、どんな人間模様が描かれたのか想像つくような、そんな迫真の表情。

私もそんな表情を浮かべてみたかった。今でも憧れている。同級生や先輩、後輩の素晴らしい演技に、引くほど嫉妬していた時期もあった。もう一度言うが、お芝居はいいなあと今でも思う。

でも私は「もうやれない」と思う。そもそも「できない」でもあるのだが、「できない」くせに部活動で一緒だった人たちを傷つけてまで演じることに執着していた大学生時代とは違い、私はもうやれない。あの素晴らしい、心揺さぶられるような表現をする舞台に、もう立てない。

なぜならば、薄々気づいていたことではあるが、私にはもう何かを表現する必要性がないのである。

「そんなこと言いながら、絵を描いているじゃないか」と自分にツッコミを入れる。そうだ、私は絵を描いている。でもこれは「それでも続けたいから」続けているもので、多分、本当は、絵で表現したいことも、表現する必要性もないのかもしれない。

年々、「発信したい」「表現したい」という気持ちが薄れているのを感じている。

単純に、年をとっただけかもしれないけど、文筆業や画業、ブログの宣伝等のために始めたTwitterInstagramは「更新したい→更新しなければならない→やめる」へと変わり、今書いているブログも「記事を書く」を開いてから結構な時間「何を書けばいいんだろう」と思い悩んでいた。だからSNSもブログも更新頻度がダダ下がったわけだが。

ただ、これは一つ、私にとっては「心身ともに健康になった」表れでもある。

“私にはもう何かを表現する必要性がない”と書いたが、何かを表現する必要性を感じていた頃、恥を忍んで言えば、私は自意識過剰にも程があるほど性格にめちゃくちゃ難があったし、「誰にもわかってもらえないんだ」と本気で思っていた。表現することで自分を慰めていたのだ※。

※誤解してほしくないので言うが、表現者が全員そうだというわけではない。

今の私は自己表現以外の方法で自分を癒すことができている。そもそも自分に自信が持てるようになったし、苦手だと思っていたコミュニケーションも、距離感とか人間関係の持ち方次第でどうにかなることを知った。

考えてみれば、まだたった31年しか生きていない人生の中で一番やばかった時期の私は、表現、その頃は演劇に全てをかけ、すがっていたのである。

そういうやり方で表現する必要性は、もうない。

その頃の思い出が強く残り過ぎているという点でも、その頃のような気持ちで向かうことは二度とできないだろうという点でも、多分、もう演劇はやれない。

でも、表現が嫌いになったわけではないので、表現は続ける。

これまた自分でうっすら思っていることだが、演劇同様、決して絵を描くこともそこまで器用にできるわけじゃない。私から見て「いいな」と思う作家さんのように、のびやかに描くことはできないし、実は最近、「描きたいものを描け」と言われて困ってしまっている。

器用にできないし、「これが表現したいんじゃ!この表現で魅了してやる!」みたいな気概もそんなにないが、一つ、「表現をやめたくない」とは確実に思っているので、その意識と行動はやめずに続けていくつもりだ。

そんなことを言いつつ、また何かひょんなことがきっかけで表現したい欲が目覚めて、とってもめんどくさいことになることもあるかもしれないが、まあ、そうなったらそうなっただ。

現時点では、表現する必要性はとっくのとうに失われてしまったのかもしれないし、他の表現者の皆様以上にぬるく生きている可能性は高いが、表現を続けることだけは曲げないと決めた人間である。

……。

終わり。