生きづらさから、何度も立ち直らなくていいのでは?

自分が書いた記事を読み返していたら、2018年に更新した記事にこんなものがあった。

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元々は2017年8月に書いたもので、それを2018年3月の自分が書き直したようだ。2018年、元々は2017年の記事。8年、9年前の話。覚えてないなあ。

 

それで、読み返していたら時代の変化を感じ取ったのと、今、かえって生きづらさが増していて、「ウケるな〜」と笑い飛ばさなければ心が折れちゃいそう(というか、もう折れてる)な感じがして、この記事を書き始めた次第である。

 

当時の私は、こう書いていた。

生きづらさは今でも感じている。

だけど、それを受け入れて立ち直ることもできる、と。

あれから年月が経ち、2026年の今も、生きづらさはなくなっていない。むしろ、以前より強くなったように感じる。

そんな中、ふと思った。

もう、何度も立ち直ろうとしなくていいのでは?

傷つくたびに気持ちを切り替え、前を向こうとする。そんなことを繰り返すうちに、私は「立ち直ること」そのものに疲れてしまったのである。

今考えたいのは、生きづらさを克服する方法ではない。これ以上自分を傷つけずに暮らしていく方法だ。

 

生きづらさは、以前より強くなった

2017〜2018年当時、世間で当たり前とされているものにうまくなじめず、それを指摘されることにも強い恐怖を感じていた。特に、会社に勤めること。

2018年のわたしは、社会に対して、そこそこ強い言葉を向けている。

  • 普通とは何か
  • 何をしても文句を言われるなら、好きなことをすればいい

当時は……ブログで煽るのが流行っていたよね、多分。例に漏れず、わたしも同じようなことを社会に向けて訴えたかったのだと思う。凡庸のくせに。

とはいえ、今でも、この考えを完全に手放したわけではない。人にはそれぞれ違う事情があり、考え方があり、暮らし方がある。多数派の生き方に合わないからといって、その人の生き方が間違っているわけではない。

けれど、以前の私にあった勢いが、今はもうない。

当時は、

  • 自分に合わない場所から離れればいい。
  • 自分にとって生きやすい環境をつくればいい。
  • 嫌われても、自分の好きな道を選べばいい。

そう言い切ることで、自分を奮い立たせていたのだと思う。

でも今は、それだけではどうにもならない生きづらさがあることも知っている。まず、そもそも離れることができない、環境をつくれない、好きな道を選べない場合だってあるということ。

加えて、環境を変えても消えない苦しさがあったり、好きなことをしていても自分の価値がわからなくなったりすることがある。人と距離を取れば楽になるとは限らず、孤独が深まることだってある。

生きづらさは、周囲から与えられるものだけではないからだ。

過去に言われた言葉や、身についた考え方、自分を責める癖、誰かの機嫌を先回りして考えてしまうこと。そうしたものは、場所を変えても、自分の中についてくる。

 

「立ち直れる自分」でいようとしていた

2018年の私は、「生きづらいけれど、立ち直ることができる」と書いた。当時は、それが希望となっていた。つらいことがあっても、また立ち上がれる。傷ついても、自分の好きな仕事や表現に戻ってこられる。そう信じることが、私を支えていた。

けれど今振り返ると、「立ち直れる自分」でいなければならないと思い込んでいた部分もある。

  • 落ち込んだら、回復しなければならない。
  • 止まったら、再び歩き始めなければならない。
  • できなくなったことは、またできるようにならなければならない。

「立ち直る」という言葉には、いったん元の場所へ戻るような響きがあるが、傷ついたあとに、以前と同じ自分へ戻れるとは限らない。

それでも私は、「前の自分ならできた」「もっと頑張れていた」と、今の自分を過去と比べてしまう。今となっては、立ち直ろうとすることが、いつの間にか自分を追い立てる行為になっているのである。

 

立ち直らなくてもいいのでは?

そして今は、一旦、「立ち直らなくてもいいのでは?」と考えるようになった。諦めるとも違う。

先日、尊敬している人から「(大事なのは)自分を許すことだよね」と言われてハッとした。「諦めるっていうか、元に戻ろうとするんじゃなくて前に進むの」

これまでは、それこそ、自分の身に起きた変化に耐えられなくて、生きるのが苦しくなりすぎて、どうにかして、元に戻ろう、2017年とか2018年とかの自分の生き方に戻ろうとしていたのだが、そうではなくて。

変化は生じるから、その変化の波にのって前へ進む。その代わり、これまでと比べると停滞しているように見えるかもだけど、少しずつ少しずつでも変化していけば、それは前へ進んでいることにはなる。

そういうとき、昨日までできていたことができなくても自分を責めない。許す。つらいときに、無理に元気になろうとしない。答えが出ないままでいいから、いったん立ち止まる。

そんな時間があってもいいのでは?

今は苦しい。

まずは、それだけでいいのでは?

理由を説明できなくてもいい。前向きな意味を見つけなくてもいい。今回の経験がいつか役に立つと考えなくてもいい。立ち直るためではなく、これ以上傷を深くしないために休む。これも、生きづらさとの向き合い方の一つなのではないか、と思った。

 

環境づくりはたまに危険

かつての私は、「自分にとって生きやすい環境はつくり出せる」と書いた。この考えは、今でも大切だと思うし、事実だと思うが、“自分にとって生きやすい環境”が崩れたときに大変な思いをする、というのが今のわたしの感想だ。

繰り返しになるが、決して、自分を守るために環境を変えることが悪いとは思わない。苦しい場所から離れること。会うと消耗する人との距離を調整すること。自分に合わない働き方や生活の基準を見直すこと。これは重要だ。

でも、生きやすい環境をつくったからといって、生きづらさが完全になくなるわけではなかったし、その環境自体が育児とか介護とか、他者のケアで崩れる場合もあると知った。

それに、そういう環境で実績を積む中で、他者からの評価がやっぱり気になるようになってしまって、好きな仕事をしていても苦しくなってしまった。好きなことが評価の対象になり、疲れてしまった。

だから、生きづらい人が自身のためによい環境をつくるというのは、時たまに「危険」だと思う。

 

他者の言葉の影響力も注意

それから、どんな生き方を選ぼうとも、何かを言う人はいる。働けば「働きすぎ」と言われ、休めば「怠けている」と言われる。子どもを持つことにも、持たないことにも、他人は簡単に意見を述べるものだ。自分だってそうだ。そういうものだ。

以前の私は、「何をしても文句を言われるなら、好きなことをすればいい」と考えていたが、他者の言葉を気にせずに生きることは、わたしにとっては簡単ではなかった。

人の言葉を気にしてしまう自分に、「そんなことは気にしなければいい」と言っても、さらに苦しくなるだけだ。だから、今は、気にしてもいい。傷ついてもいい。ということにしている。勝手に耳に入っちゃうし、勝手に脳が再生するのだ。遠ざけたくとも離れない。じゃあ、もう仕方がない。

ただし、それらの言葉(わたしにとってのネガティブ言葉)のすべてが「正しい」わけでもないことを忘れないようにしている。

誰かが語る「普通」や「正しさ」は、その人が見てきた狭い範囲の世界から生まれたものかもしれない。その言葉で傷ついたとしても、従う必要まではないのである。

すぐに反論できなくてもいいし、堂々と自分を貫けなくてもいい。あとになってから静かに距離を取ることもできるはずだ。

というわけで、今は「弱いまま」、自分を守ろう、許そうとしているところだ。

 

生きづらさを、受け入れなくてもいい

2018年の私は、生きづらさを受け入れられると書いていたが、今は、「受け入れる」という言葉にも、少し疲れている。

生きづらいものは、生きづらい。

そういってもいいのではないか。「嫌なものは、嫌だ」とか「納得できないものは、納得できない」とか、みたいに。

無理に受け入れなくても、今日1日を過ごすことは、まあ、なんとかできるわけだから。自分の人生を好きになれなかったり、今日を意味のある一日にできなかったり、そういうのがさらに自分を苦しめたりするのは分かるんだけど、もう、なんか、それでいいじゃん、って。

今の私がやった方がいいのは、生きづらさを克服することではなくて、苦しいなあって思ってる自分に、これ以上厳しい言葉を向けないことだと思う。

 

2018年のわたしは「生きづらいけど、生きていることを後悔することはもうない」と言っているけど、2026年の私は、同じようには言い切れない。残念だけど。生きていることを前向きに捉えられない日もある。自分の選択に自信を持てない日もある。何かを始める力も、立ち直る力も残っていないように感じる日がある。

でも、まあ、元気じゃなくてもいいんじゃないかと。

以前の私は、生きづらさに負けないために、好きな仕事や好きな表現を支えにしていました。今は、好きなことさえできない日があるから、そんな自分を許す、休ませる方法を探しているところ。

生きづらさは、以前より強くなってしまったけれど、もう立ち直るというか、立ち上がらなくてもいいんじゃないか、と。

今ここにいる自分の否定だけはしないように心がけつつ(しょっちゅうやってしまうから、こうやって書き残したり、カウンセリングに通ったり、双極症の薬を飲んだりはしているけど)、なんか、そんな感じで。

2026年の私は、そんな感じで。