「自分の機嫌は自分で取る」に疲れたときは、まず、自分を責めない

「自分の機嫌は自分で取る」が苦しくなることもある。

誰かに不機嫌をぶつけるのではなく、自分の気持ちは自分で整える。好きなものを食べたり、気分転換をしたり、よく眠ったりして、自分自身をいたわる。たしかに、大切な考え方だと思う。

けれど、心がしんどいときには、この言葉さえ重荷になるのだ。

自分の機嫌を取るために何かをしようとしても、何をすればよいのかわからない。好きだったものにも気持ちが動かない。散歩に行く気力もなければ、おいしいものを選ぶ余裕もない。

それでも気分が沈んだままでいると、「自分は自分の機嫌すら取れないんだ」と落ち込んでしまうし、気分を立て直せない自分を責めることもある。

本来、自分を楽にするはずだったセルフケアが、新しい課題になってしまうのだ。

そのようなときは、自分の機嫌を取ろうとしなくてもよいのではないだろうか。

楽しくならなくてもよい。前向きにならなくてもよい。ただ、これ以上自分を責めない。それだけを目標にしてもいいのではないか。

 

自分の機嫌を取る、に疲れてしまうのは

まず、セルフケアまで「やるべきこと」になってしまうからだ。

世の中にはさまざまなセルフケアが紹介されている。十分な睡眠を取る。栄養のあるものを食べる。運動をする。部屋を整える。日光を浴びる。趣味の時間をつくる。自分をいたわる言葉をかける。

どれも、素敵なことだと思う。しかし、心身に余裕がないときには、それらを実行すること自体が難しい。

起き上がるだけで精いっぱいの日に、セルフケアは休息ではなくなる。

「自分を大切にしなければならない」
「気分転換をしなければならない」
「きちんと休まなければならない」

このように考え始めると、休むことさえ「上手に行わなければならないこと」のような気がしてくる(あらためて考えると、あまりに疲れすぎてますね)。

本来は自分をいたわる工夫だったものが、いつの間にか達成すべき項目へと変わってしまうのである。

となると、どうしたらいいのか。

何もしない。

これが、ときには自分をいたわる方法になる。

 

「機嫌を取る」と「自分を責めない」は異なる

そう考えて、気分をよくすることを目標にしてしまうのをやめた。

自分の機嫌を取ることは、気分を現在よりもよい状態へ動かそうとする行為である(と定義する)。一方、自分を責めないことは、気分を無理に変えようとしないことともいえる。つらい気分のままだけど、それはそのままで、そこに「責める」とか「機嫌をとる」とか、そういう新しいものを「加えない」という選択をとる。

 

たとえば、朝から気分が重く、何もする気になれない日があるとする。

自分の機嫌を取ろうとすると、気分転換の方法を考えることになる。好きなものを食べるか、動画を見るか、外へ出るか。でも、そういう選択が負担になる日もある。

自分を責めないことだけを考えるなら、「今日は気分が重い」と認めるだけでもいいのだ。気分を改善できなくてもいい。今日を楽しい日に変えられなくてもいい。少し元気になることさえ目指さなくてもいい。「こんな日もある」と思えなくても構わない。

ただ、「こんな自分はだめだ」と思ってしまうのを先延ばしにする(否定するのは難しいので、あくまで先延ばしに)。

気分がよくならないことと、自分に価値がないことは、まったく別の話である。

 

自分を責めないためには

それで、自分を責めないためには、できなかったことより、心の負担の大きさを見るようにする。

たとえば、何かができなかったとき、私たちは結果だけを見やすい。洗濯できなかった。返信できなかった。外出できなかった。予定していた作業が進まなかった。結果だけを並べれば、「何もできなかった一日」に見える。

でも、その日にどんな負担を抱えていたのかは、外からは見えにくいもので。前日はよく眠れなかったのかもしれない。人と話しただけで大きく消耗したのかもしれない。不安や考え事で、頭の中が休まらなかったのかもしれない。

外からは何もしていないように見えるかもしれないが、つらさに耐えることへ多くの力を使っていた可能性だってある。

だから、できなかったことを振り返ってしまう前に、「今日はどのくらいしんどかったんだろう」「心の負担が大きかったんだろう」と考えてみる。

いつもなら簡単にできることが難しかったのなら、それは怠けたんじゃなくて、それだけ生活するための余力が少なかったということかもしれない。

そうやって考えるだけでも、自分への評価は少し変わる。

 

それから、最低限できたことまで否定しない。

つらい日には、小さな行動を「こんなことはできたうちに入らない」と扱ってしまうことがある。起き上がった。水を飲んだ。薬を飲んだ。何かを口にした。着替えた。連絡を一つ返した。布団へ戻った。元気な日であれば、意識もしないような行動だ。

だから、「誰でもできる」と思ってしまうかもしれないが、その日の自分にとって負担の大きな行動だったのなら、それは決して些細なことではない。

このとき、無理に自分を褒める必要はない。「すごい」と思えなくていい。ただ、小さな「できた」を否定する必要もない。つい「何もできなかった」と言ってしまうのだけれど、本当に何もしていなかったのかを振り返ってみる。

「水を飲んだ」「一日を終えた」と、事実をそのまま受け入れる。

 

休むことに理由をつける必要もない。

つい、休むときに納得できる理由を探してしまうことがある。昨日よく眠れなかったから。最近忙しかったから。体調が悪いから。大きな仕事を終えたから。理由があれば、休んでも許されるように感じる。

反対に、はっきりした理由が見つからないと、「休むほどではない」「もっと頑張るべきだ」と思ってしまう。けれど、つらいと感じていること自体が、十分休む理由になっているはずだ。本来は。休んでいいのだ。休みたいのなら。

休むために、誰かを納得させるような理由を用意しなくていい。

今日は休みたい。今は動けない。それだけでもいい。

加えて、自分を無理に励ます必要もない。心が疲れていると、励ましの言葉を受け取れないこともある。人から「大丈夫」と言われても、大丈夫と思えないのに、自分で自分に「前向きになろう」と励まして、行動に起こせるわけがない。

そういう日は、無理に自分を励まさなくてもいいと思ってる。

その代わり、「だめだ」と思ったあとは過度に自分を責めない。「だめだ」と思ってしまったあとは「だめだ」をそのまま受け入れて、静かにしておく。それ以上、何も言わずにおく。

自分を励ますのが難しいなら、せめて厳しい言葉を少しでも減らす。それだけで十分だと思うのだ。

 

ごきげんにならなくても、一日は過ごせる

自分の機嫌を自分で取れれば、そりゃあ楽だろうよ。でも、それができない日もある。だけど、それができないからといって、自分を責める必要はない。気分をよくできなくてもいい。前向きになれなくてもいい。楽しいことを見つけられなくてもいい。

ただ、つらいと感じている自分に対して、これ以上ひどい言葉を投げないことだけ意識したい。

ごきげんになれなくても、一日は過ごせる。

元気になれない日は、元気になることよりも、とにかく自分を責めないことを重視している。