過去にも「しんどい、つらい、疲れた」という言葉について書いているけれど、それと同様、この記事の内容は「しんどい」「つらい」「疲れた」の対策法ではない。
あなたは十分頑張ったと伝えたい。
十分頑張った
「しんどい」「つらい」「疲れた」。
そんな言葉が口から出るとき、わたしはつい、自分の弱さを責めてしまう。
- もっと頑張らなければいけない。
- これくらいで疲れてはいけない。
- ほかの人は普通にできている。
けれど、「疲れた」と感じているのは、何もしていないからではない。むしろ、ここまで何かに耐え、悩み、考えながら過ごしてきたからこそ、疲れているのではないだろうか。
今、しんどさを感じているあなたは、これまで十分に頑張ってきた人なのだとわたしは思う。
決して怠けではない
疲れていると、わたしの場合は双極症のうつの波がきたとき、何もできなくなることがある。
- 起き上がれない。
- 着替えられない。
- 食事を用意できない。
- 連絡を返せない。
- 好きだったことにも手が伸びない。
そんな自分を客観的に見て、「怠け」だと捉えてしまうことがある。でも実際には、目に見える行動だけが「頑張っていること」ではないことを忘れちゃいけない。
つらい気持ちを抱えながら一日を過ごすこと。周りに気を遣いながら会話をすること。不安を感じながらも、予定をこなそうとすること。
表からは何もしていないように見えても、心の中ではたくさんの力を使っていることがあるのだ。休んでいるように見える時間でさえも。
頑張りは、成果だけでは測れない
わたしなどは、結果が出たときにだけ「頑張った」と認めがちである。
- 仕事を終えた。
- 家事を片づけた。
- 誰かの役に立った。
- 目標を達成した。
けれど、実際には成果だけで判断できるものではないみたいだ。
途中で動けなくなったとしても、そこまで進もうとしたことはなくならない。うまくできなかったとしても、考えたり迷ったりしながら取り組んだ時間は残っている。今日は何もできなかった、と思う日にも、一日を終えるところまでは来れたのだ。
つい焦ってしまうけれど、それを忘れてはいけない。
思いどおりの結果にならなかったとしても、頑張っていなかったことにはならない。
人と比べなくていい
わたしは自分がつらいと感じたとき、「世の中にはもっと大変な人がいる」と考えることがある。自分より忙しい人だとか、自分より苦しい状況にいる人だとか。
そうした人と比べて、自分は弱い、自分のつらさは大したことがないと思ってしまうこともある。
でも、誰かの苦しさが大きいからといって、わたしの苦しさが消えるわけではない。しんどい気持ちもつらい気持ちも、疲れの具合も、順位をつけるものではないのだ。ほかの人と比べて軽いか重いかではなく、今のわたしが「つらい」と感じていること自体を大切にしてよいのである。それをわたしは忘れがちだ。
自分のしんどさを認めることは、わがままではない。まずは、自分の中にある「つらい」という感覚を、そのまま置いておいてもよいのだと最近は考えている。
今日は「これ以上頑張らない」を選んでもいい
休んでもいい。
注意したいのは、「休んだら、すぐに立ち上がらなければいけない」「元気になったら、遅れを取り戻さなければいけない」と考えてしまうこと。そう考える必要もない。ただ休む。休むことを、次の努力のためだけに使わなくてもいい。
今日の目標は、何かを達成することではなくても構わないのだ。
「これ以上、自分を責めない。」「無理に明るくならない。」「今は決断をしない。」
できないことを、そのままにしておく。それだけでも十分。
苦しいときに必要なのは、さらに自分を追い立てる言葉ではなく、「もう頑張らなくていい」と立ち止まれる場所なのではないか。
「疲れた」と言えることも、自分を守ることである
苦しさを言葉にするのは、簡単なことではない。
わたしは自信がなかったり、勇気がなかったり、他人を気にしたりするから、「つらい」と言ったら、弱いと思われるかもしれない。心配をかけるかもしれない。面倒な人だと思われるかもしれない。そう考えて、平気なふりをしてしまうこともある。
でも、「しんどい」「疲れた」と言えることは、自分の状態に気づいているということでもあって、それを認めることは自分を守るための重要なことなんじゃないかと思っている。
あなたは十分頑張った。
「しんどい」「つらい」「疲れた」と思ってしまうほど、あなたは十分頑張ったのだから、もう少しだけ、自分を休ませてもいいと思う。