妊娠した時、子どもができるとこれまで通りの生活はできなくなると聞いていて、「自分の好きなこと、やりたいことができなくなってしまうのは嫌だな」と思った。それで、子どもが外界に出てくる直前に、半強制的に絵画制作を続けるために、毎月1回の実践型講義に出席することに決めた。その結果が、タイトルである。
自分でも興味深いと思っている。
実際のところは、絵画制作をやめたいとは思っていないし、絵画制作をやめる代わりに育児に専念するとも思っていない。実践型講義や育児だけが原因ではないと思うし、その両方が原因のようにも思える。今は、絵画制作に向き合うことに、ものすごく疲れてしまっている。
絵画制作というか、作家になること(個人的には作家と名乗っているので、作家であること)というか、売れる・売れないもそうだし、評価される・されない、画家とは何か、表現とは何か、好きとは何か、突き詰めるとは何か、そういうもの全てに疲れてしまった。一生懸命哲学を続けて、それでいて見てくださる人に“伝わるようなものを”……なんてことを考えていたけど、なんかそれ自体がナンセンスに思えてきて、途中で心がポッキリ折れた。情けない話だけど。
毎月出るダメ出し(これ自体は非常にありがたい)に真面目に答えを出そうとし、追い込んで追い込んで出したものに対する講師の反応とかそういうものを観察して、また答えを出そうとする。講師が「真に受けすぎるな」的なことを言っていたにもかかわらず、講師の言葉を真に受けたりして、ああでもない、こうでもない。その間(実際には絵画制作が、後述するものに追われる生活の間にやっていたこと)、育児やライスワークに追われ、さすがに疲れ、なんでもない時間がほしいなあなんて思っていたら、普通にうつが再来した。
それで、今、この記事を書く前には、このおよそ半年間の講座中に使った画材や、これまでの制作で使っていた画材の半分を、フタのある箱にしまいこみ、視界から見えなくした。それをやるほんの少し前には、描く気力の湧かない中途半端なサイズの木枠や学校の課題で描いたけど自分では全然納得していない作品をゴミとして処分している。
つい先日の講座で、「せっかく描いた作品を捨てるなんて!」と絶句され、「捨てるな。他人が見ていい作品もあるのだから」的な助言をいただいたが、そして本来は、その助言に従った方が、作家になる(作家である)うえではいいことだったのかもしれないが、私は他人がどんなに好きと言ってくれても、自分が愛せないものは愛せないと知ってしまったのだ。自分が愛せないものはどうしても愛せなかった。
いくつかの画材を、フタのある箱にしまい込んだ今、ほっとしている。
好きが嫌いになりかけていることにはハラハラするが、絵画制作はやめないだろうと確信もできている。自分が愛せないものは愛せないが、自分が愛しているものはゴミに見えないから。
私が愛している描き方については、よく人から「こういう風に描いてみてもいいんじゃないか」と提案される。私の絵は多分窮屈で、人から見た私はどうやらもう少し堂々としていて、明るくて、外に広がるイメージがあるようだ。だから、もっと空間が広がった絵を提案される。やってみたこともあるし、やってみて好きになれた絵もあるが、私は窮屈に見える方の描き方が好きだ。そういう描き方をして、紙やキャンバスに色を載せている時間は、誰にも邪魔されない大切な時間であると実感できているし、何より出来上がったものが本当に綺麗に見える。
好きが嫌いになりかけるほど侵食されてしまった(悪いがそう感じた)から、一回フタをした。フタをしめっぱなしでそのままサヨナラする可能性もあるが、あまり人に好かれていない、私が大好きな世界が生き残ればそれで十分なんじゃないかと今は思う。
というわけで、好きが大嫌いになってしまう前に、少し距離を置く。
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