「不条理」について考える。カミュ著 窪田啓作訳『異邦人』(新潮社・初版1954年)

異邦人(新潮文庫)

はじめて読んだのは中学生の時だった。

“きょう、ママンが死んだ。”という冒頭にものすごく心が痺れたことを覚えている。太宰治の『斜陽』の冒頭の言葉の美しさにも衝撃を受けたが、カミュの『異邦人』の冒頭もまた、日常的で、普遍的な声色に響くものでありながら、物語の始まりを告げるのに相応しい響きでもあり、それに心が痺れるのかもしれない。

この本は数回読み直している。

33歳になり、社会が少しずつ「多様であること」を受け入れている現在に読み返すと、主人公ムルソーがそれほど“論理的な一貫性を失っている”人物には思えなくなったのが面白いと思っている。

太陽を理由に引き金を引いたこと、それ自体は確かに許されることではないが、ママンの死は確かに悲しいし、ママンのことを確かに愛していたが、その葬儀で涙を見せなかったことや死の翌日に喜劇映画を観に行ったこと、それがなぜここまで非難されるのだろうとムルソーに同情してしまった。

一般的な、社会的な、普通に、といった言葉の奥には、その人個人の、その人にしか知り得ない心情の機微を除け者にするような感覚がある気がしてならない。そのことを、私が生まれる前に書かれた物語を読むことで改めて感じたのだった。

文庫本の背表紙には“不条理の意識を極度に追求したカミュの代表作”と書かれているが、カミュが描いた不条理は主人公ムルソーを指すものだろうか、ムルソーが置かれた状況を指すものだろうか。

自分が置かれた状況を冷静に見るムルソーを私は尊敬してしまった。

多分、彼が捉える死の価値観にものすごく納得がいったからだと思う。

最後に、私が惹かれた死の価値観について引用する。

結局のところ、三十歳で死のうが、七十歳で死のうが、大した違いはない、ということを私は知らないわけではない。というのは、いずれにしたところで、もちろん他の男たちや、他の女たちは生きてゆくだろうし、それにもう何千年もそうして来たのだから。要するにこれほど明らかなことはないのだ。今であろうと、二十年後であろうと、死んでゆくのは、同じくこの私なのだ。

引用元:カミュ著 窪田啓作訳『異邦人』(新潮社・初版1954年)p.117

私が死んだらひとびとは私を忘れてしまう、(中略)ひとびとは、私に対してもうどうすることもできないし、私の方は、それを考えるだに耐えがたいということさえできないのだ。結局において、ひとが慣れてしまえない考えなんてものはないのだ。

引用元:カミュ著 窪田啓作訳『異邦人』(新潮社・初版1954年)p.119