主体的に「演じる」。平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社・2012年)

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

小学2年生、5年生の時に経験した学芸会がきっかけで演劇にハマり、高校の文化祭では自作の脚本で演劇を行い、大学生の時には演劇部で活動するなど、昔から演劇が好きである。

しかし、平田オリザが書く戯曲にはなんとなく苦手意識があった。当時の自分による食わず嫌いなのだが。

そういう背景もあって、平田オリザの戯曲、著作は避けてしまっていたのだが、演劇・芝居が好きな身であり、文筆業で曲がりなりにも演技について書かせてもらっているわけだし、加えてコミュニケーションにも興味があるのだからとこの度手に取った。

読み終わった感想としては、自分の食わず嫌いを激しく後悔するほどに、そして演劇の価値観がガラリと変わるぐらい、胸に響く言葉ばかりで感動する1冊だった。

その感動具合はというと、電車内で章末を読んでいたら涙が込み上げてきて、それを我慢しながら自宅に帰った、という感じ。

 

私個人として興味深かった話題は「演劇」や「演じる」という言葉から連想されるネガティブな側面がどこから生まれたのかというものと、文化や価値観の違う人と話す時、何がつらく感じられ、コミュニケートするためにそれをどう乗り越えなければならないのかというもの。

特に、一般的に「演劇」と聞いて、人々が感じる「演技くささ」の歴史は面白い。これは言語や文化の違いからくるものだった。

欧米の言語は単語の繰り返しを嫌い、感情を表現するときには強弱アクセントを用いる。一方、日本の言語には語順が自由という特徴があり、単語の繰り返しを厭わない。

欧米の言語と日本の言語で表現方法が異なるにもかかわらず、“西洋で生まれた近代演劇の輸入の仕方を、多少間違えてしまった”。

“感情を強弱アクセントによって表現するという欧米の言語、特に英語、ドイツ語、ロシア語などに特徴的な発語の方法までも真似しまった”から、いわゆる「演劇めいた演技」に違和感を覚えるのだとわかった。

大学で美術史に少し触れた時や最近読んだ言語や翻訳にまつわる本の中でも、そのような、他の文化を日本の文脈に取り込むことの難しさが書かれていた。ここを理解できれば、「演劇めいた演技」も「まあ、仕方ないか」と思えるようなもので。

 

ほかにも若者と年輩の人の間に生じるズレや文化の違いから生じるズレだったり、文中では著者とロボット工学博士の石黒浩氏がともに取り組むアンドロイド演劇を通じて「人間らしさ」について触れたりと、その話題は演劇のカテゴリーだけに留まらない。

あらゆる分野を横断して、コミュニケーションとは何かという問いに対する著者の意見が天海するので、演劇に苦手意識のある人ほど読んでほしいな、とも思った。

 

個人的には、この本を読んだことで、小さい頃から抱いていた違和感から解放された。印象に残ったのは以下の1文である。

 人びとは、父親・母親という役割や、夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。多くの市民は、それもまた自分の人生の一部分として受け入れ、楽しさと苦しさを同居させながら生きている。(中略)演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。ならばまず、主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。

引用元:平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社・2012年) p.221

小学校高学年から中学生あたりで、父の前、母の前、先生の前、友人の前で見せる自分の振る舞いが気持ち悪く思えて、本当の自分は他人の目に映るような自分じゃないんだと悩んでいた。そう思っていても、「演じてしまう」「演じさせられる」感覚があり、直せず、苦しかった。

だが著者は「本当の自分」や「いい子を演じるのに疲れた」と話す子どもに対し、“「本気で演じたこともないくせに、軽々しく『演じる』なんて使うな」”と言ったり、“「でもさ、本当の自分なんて見つけたら、大変なことになっちゃうよ。新興宗教の教祖にでもなるしかないよ」”と言ったり、厳しくも愛を感じる返答をする。

そしてこんな言葉が続く。

本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。

引用元:平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社・2012年) p.219

あの違和感の正体はそんなに珍しいものではなかったし、主体的に「演じる」ことをプラスに捉えられるようになった。それが嬉しかった。