個展のために絵を描いた。自分の死生観を絵に描いた。絵がもっと好きになった。

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2020年1月22日から26日までの5日間、原宿・デザインフェスタギャラリーで個展を開く。

新作のテーマ、というか「個展を開こう」って思ったときに閃いたテーマが、「生と死」なんだけど、先日1作品描き上がったのね。

見つめれば見つめるほどクラクラする絵。

どちらが生で、どちらが死なのか。あるいはどちらも生、どちらも死、なのか。見る人に「生と死」を委ねられる絵が描けた気がする。

自分の正直な思いを描くことができた。

絵がもっと好きになって、絵がもっと描きたいと思った。

 

死(生)を描く理由

昨年7月にはじめて個展を開催した。

初日の前日、母が亡くなった。

 

わたしは母の闘病する姿を見ていたし、なんなら、自分自身が母と同じガン患者だったから、人よりも「いつか必ず死ぬ」現実を受け入れられていた気がする。

とはいえ、時々「お母さん死んだんだな」と思うことがある。母は自分の気持ちを表に出すタイプではなかったので、どんな気持ちで病気を死を受け入れたのか、後悔はなかったのかとか、母の真意を知ることなくお別れしたのも、多分影響している。

でもまあ、それでもやっぱり、人は、というか"生き物"はいつか必ず死ぬし、生まれてきちゃった以上、それには抗えない。

 

小さな頃から「死」にずっと興味があった。

小学1年生のとき、道端でグチャグチャになった鳩の死骸を間近で観察したのを覚えてる。で、そのとき思った。

「なんでこれは生きてないんだろう」

それから「必ずやってくる死に不安や恐怖を感じる」感覚にも興味があった。

「いつ死ぬかは分からないけど、いつかは必ず死ぬ」これを受け入れられないのはなんでだろう。

母が亡くなり、「1人」から「1体」になったときも思った。母という1人の人間の生命活動が終わっただけに過ぎないのに、なんでこんな複雑な思いをしなきゃいけないんだろう。

わたしは今まで曾祖母、祖父、祖母、母の遺体と対面している。「1体」となった彼らは、確かに彼らなのに、彼らに思えなかった。

わたしはそんな彼らと対面したとき、得体の知れない怖さと、失った悲しさと、不思議なあたたかさを味わった。

 

生きてると死んでるの境界を感じたくて、わたしは絵に描くことにした。わたしは「生きてる」を内臓の生々しい赤で描く。「死んでる」は、骨壺に納められる喉仏だ。

じゃあ境界は?

わたしは「手」を描くことにした。

力なく横たわる手を描いた。

力なく横たわっているだけで、死んでいるのか生きているのかは分からない。

 

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力なく横たわる手を描いた作品のうちの1つ。

 

 

わたしは母が亡くなる日、母に会いに行っていた。意識もなく、脈も少なく、色んなものにつながれて、自発的に目を閉じることも呼吸することもできなくなった母は「生きていた」けど「死んでいた」のかもしれない。

手に触れたけど、何も反応が返ってこない母の手は怖かった。

母が亡くなったあと、母に触れた。血がもう巡っていない母の手は怖くなかった。むしろ穏やかだった。冷たかったのに、あたたかった。

ますます境界が捉えられなくなり、わたしは生きているのか死んでいるのかわからない手を描くことにしたのだ。

 

基本的には「考えるな、感じろ」スタイルで絵を鑑賞するのが好きだから、皆様にもどうかお好きなように個展の絵を見ていただきたい。

ただ、自分の死生観に向き合って絵を描いてみたら、描きあがった絵のほうから予想以上に訴えかけられてしまったので、文章で自分の思いを綴ってみることにした。

 

あなたはこの絵に何を感じる?

では。

 

『Be Healthy with Physical and Mental #2』

Kho-K ( Kaho Katayama )

日程:2020.1.22 - 2020.1.26
時間:11時〜20時※
場所:デザインフェスタギャラリー WEST館 1-C

※初日は搬入のため13時〜20時、最終日は搬出のため11時〜18時を予定しております

 

Instagramで制作過程が覗けます。