先に申し上げると、この記事で登場する「しゃべりたいだけオジサン」に罪はない。
ただ「しゃべりたいだけ」って時、わたしにだってある。しゃべりたいだけしゃべって「ふー、満足!!!」ってなる気持ち、分からなくもない。人間だもの。
でも、デザインフェスタにはじめて出展した頃から、わたしは目標にしていた。
「しゃべりたいだけオジサン」から話しかけられなくなることを。
しゃべりたいだけオジサン
しゃべりたいだけオジサン定義
わたしが定義する「しゃべりたいだけオジサン」とは、
- とにかくしゃべりたいだけ
- うんちくを教えてくれる
- アドバイスをくれる
- お叱りをくれる
- だけど、作品は購入しない
人のことを指す。
“だけど、作品は購入しない”と書いたけど、作品を購入するかどうかはお客様が決めることだし「なんだよ、買えよ」って言いたいわけじゃない。
でも、しゃべりたいだけオジサンと話しているとき、遠巻きに作品を見てくれているお客さんを見つけたりすると「チャンスロス※・・・!チャンスロス!!!」と思ってしまう。
※ちなみにチャンスロスとは、
売り上げを伸ばす機会があったにもかかわらず、商品そのものが不足しているために、本来得られたはずの利益を逃すこと。機会ロス。機会損失。
のことである。
しゃべりたいだけオジサンの特徴
なお「しゃべりたいだけオジサン」と「オジサマ」の違いは接し方にある。
「オジサマ」は紳士的に接してくれる。というか、そもそもわたしの説明に耳を傾けてくれる。しゃべるだけではないのだ。話を聞いてくれるし、そのうえで意見してくれる。
だが「しゃべりたいだけオジサン」は、割と一方的だ。
2019年4月にはじめて『クリエイターEXPO』に出展した際も、「しゃべりたいだけオジサン」に遭遇。
そのうち1人は、人の病気について「あんたもたまたま治っただけだろ」とのたまり、人をガンガンに指差す失礼極まりない人物であり、「しゃべりたいだけオジサン」の言葉を流すことに慣れてきていたわたしも、さすがに怒った。
指差おじさんの指差も不快だったが、化学療法嫌い・医者は患者を騙してる思想も嫌だった。「嫌い」なのは別に構わない。しかしわたしが抗がん剤治療で寛解したことについて「たまたま助かった例だ」なんて、テメエが言うな、クソジジイ。配慮が足らない。なぜ、元ガン患者に平気でそんな口が聞けるのか
— Kho_K@Writer&Painter (@Kho_TOKYO) 2019年4月3日
(↑)割と激怒している。
わかりやすい呼称にするため「しゃべりたいだけオジサン」と命名した。
が、実際には大抵ただの「失礼な人」だったりする。「話を聞く気がない人」「一方的に語りたいだけ語ったら立ち去る人」とかね。
・・・しかし、これまた面白い話なのだが、デザフェスや先述したクリエイターEXPO、個展等々で、このタイプの
- お兄さん
- お姉さん
- おばさん
に遭遇したことがない。
なぜか「オジサン」なのだ。
なんでや。
なんで絡まれるのか
わたしはこれを、「わたしが女だから」なんじゃないかと疑っている。
しかもわたしがある程度、
- 人が良さそう
- 割とニコニコしてる
- 話聞いてくれそう
だと認識されたうえで、「女」だからなんじゃないかって。
「人が良さそうで」「割とニコニコしてて」「話聞いてくれそう」だったら、正直わが夫・アカヨシロウ(@AkaYoshiro)のほうが適任だと思っている。だが、彼はひげ面でまあまあ高身長。細マッチョなうえに、話してみると議論好きだ。
「話聞いてくれそう」だけをピックアップしたとしても、話聞いてくれそうな「男性」と話聞いてくれそうな「女性」を目の前にしたとき、多分彼らは、「しゃべりたいだけオジサン」は、「女性」に向かうのだと思う。
わたしは専門家ではないし、正直なぜ「女性」に向かってしまうのか、なんで「男性」じゃだめなのかの心理を知ることはできないのだが、男性のアーティストさんにゴリゴリに絡んでいく「しゃべりたいだけオジサン」を見かけたことがない。
わたしはよく周りのブースを観察している。どんな人の作品に、どんな人が興味をもってやってくるのかを知りたいからだ。そんなとき、「しゃべりたいだけオジサン」っぽい人は、大抵女性のところへ向かう。しかもだいぶ年下の女性のもとに。
この話題、結局のところわたしの主観でしかないから「男性差別だ」「オジサン差別だ」「話するだけでもいいじゃないか」と訴えられても仕方がないと思う。
だが、作品を買うでもなく、人によっては作品の話をするわけでもなく、ブースに立つ人に一方的に自分の話をする人はいるものだ。
それが大抵「オジサン」なのだ。
なんでや、と常々思う。
彼らには申し訳ないが、指標にする
なお「作品を買わず、作品についての話をするわけでもないが、ブースに立つわたしと会話してくれる人」は「しゃべりたいだけオジサン」ではないと思っている。
先でも述べたように「しゃべりたいだけオジサン」は、割と一方的なのだ。せっかく話してみても、会話になっていないのだ。彼らは自分の話だけをする。それにわたしは「あんま、よくないぜ、オジサン」と思っているのだ。
で、だ。
わたしはデザフェスvol.49で6回目の出展となった。
はじめて出展したとき(↓)は「しゃべりたいだけオジサン」オンパレードだったことを覚えている。
描きたいものも作風も定まってないし、両側のブースが大盛況だったのもあいまって、ぽつねんと座るわたしに「話しかけてくれた」つもりなのだろう。
だがわたしは、彼らには申し訳ないが「あーだめだ、なめられとる」と思った。
一方で、作品を気に入ってくれた人や購入してくださった方が、意外にもさっぱりその場を離れるのが印象的だった。
2回目の出展も「しゃべりたいだけオジサン」オンパレードだったが、内臓の絵に特化し、バッキバキの色味が定着し、「わたしは内臓で勝負するぞ!!!」みたいな顔立ちになった3回目あたりから、徐々に「しゃべりたいだけオジサン」は遠のいていった。
(↑)2回目の出展。
(↑)4回目の出展。
そして足を運んでくださる人の層が変わった。「しゃべりたいだけオジサン」から、一気に老若男女へと広がり、ポジティブなコメントを残してすっと立ち去る人が増えた。購入してくださる人も増えた。
「すっと立ち去る」という響きは一見すると「え、ダメなんじゃね?」と思われるかもしれないが、デザフェスなどのイベントでは出展者さんの数が膨大だ。
数ある作品を見ぃ見ぃ歩いてきた人たちが足を止め、作品を見て、「あら、素敵じゃないの」と声をかけてくれるだけでだいぶ嬉しい。時々1度立ち去った人が戻ってきて、作品をもう1度見てくれることもある。購入してくれることもある。
「しゃべりたいだけオジサン」に罪はない。
だが、彼らには申し訳ないが、わたしは彼らを指標にする。彼らに話しかけられる率が高いときは大抵、作品やブースの詰めが甘い。作品やブースに統一感が生まれれば生まれるほど、彼らに話しかけられる機会は減った。
つまり、そういうことだ。
「しゃべりたいだけオジサン」と接する機会が減ったのは、成長だと考えている。
2019年5月18日〜19日、7回目の出展では、とうとう「しゃべりたいだけオジサン」と絡まなかった(もしかしたら、ひげ面細マッチョがずっと横にいたのも理由かもしれない)。
なんで「オジサン」なのかが全くもって解決していないが、今後も「しゃべりたいだけオジサン」にはあまり絡まれない作品制作を続けていこうと思う。
「しゃべりたいだけオジサン」には罪はないけど、わたしが関わりたい人ではないので。
では。
◆本日のおすすめ◆
今回「オジサン」って呼称を使ったけど、実際のところはどんな人とも「対等」に接することができるのが理想。一方的に話しかけられまくるんじゃなくてね。
そのための参考に。