どうせなら、新聞、テレビ、インターネット上のニュース、実際に起きた出来事・・・写真(↑)みたいな顔で受け止めたくない・・・?
なんで、そんなみんな、不幸が好きなの・・・?
他人の不幸に疲れた
【SNSの話】
— Kho-K(片山香帆)@Writer&Painter (@Kho_TOKYO) 2018年6月26日
呟きたいこと呟きますと、
ここのところTwitterなどのSNS上では
・嘘
・本当
・本当かと思ったら嘘だったこと
・嘘だと思いたいけど本当のこと
など色々、色々ありましたね。
情報を鵜呑みにしないように心がけていたのですが、まんまと振り回されてしまいました。
なんか、疲れるね。
続き→
— Kho-K(片山香帆)@Writer&Painter (@Kho_TOKYO) 2018年6月26日
色んな人とつながれる、そんな利点を感じていたSNSだけど、先週末から今日にかけて、あっけなくデメリットに飲み込まれた感じ。
分かってはいたけれど、情報が増えれば増えるほど疲れるのも事実。少しTwitterやブログに依存気味なのも自覚しているので、もう少しのんびりしようと思いました。
今わたしが置かれている状況が、たまたま気分を落ち込ませるものなのかもしれない。でも現実で、決してハッピーじゃない状況が続いている中、SNSやニュースから目に飛び込む話題が落ち込むものばかりで正直疲れる。
「情報を鵜呑みにする」ことの危険性は重々承知で、承知しているから自分は大丈夫だとは思っていたけれど甘かった。ここ数日、わたしは情報に振り回されてしまった。
振り回される中わたしは思った。
「みんな、他人の不幸が大好きなんだ」
もちろん振り回されたわたしだってそのひとりだ。
それが余計、わたしを嫌な気分にさせた。
知り合いが増え、情報が増えることは悪いことばかりじゃないけれど、たまたま今週は気持ちが重くなるような話題がドッと目に入ってきたような気がして、頭がクラクラした。嫌なのに、それをまだ気にしている自分にもゾッとしている。
わざわざ不幸を見にいく必要はない
痛ましい話題が起きた時、それを報道するなとは言わない。
だけど、情報として捉える以上に、わざわざそれ以上の不幸を見にいく必要はないんじゃないの?って思う。
その話題に対する誹謗中傷とか噂とか、そこから派生した炎上とか・・・心がざわざわするものばかりで満たす必要はないんじゃないのって。
他人のハッピーを受け入れようよ
元々「炎上」や「他人の不幸」は好きじゃない。見ていて気持ちのいいものではない。
「炎上商法」なんて言葉もあるけれど、その商法で稼いでいる人達も、炎上を気にしていないだけで、炎上が気持ちいいわけではないはずだ(そう思いたい)。でもそれに乗っかったり、もっと煽ったり、盛り上がったりするのが世の常だ。
だとすると、世の常は「他人の不幸」が大好きなのだ。そんな世知辛いことあるかよ!って思うけど、多分そうなんだ。
でも、どうせなら「他人のハッピー」を見ようよ!って訴えたい。
「他人のハッピー」ってそんなに妬ましいことかな。
だって他人なんだもん、自分とは違う。「いいな〜、自分は〇〇なのに・・・ぐぎぎ」って思うから妬むのかもしれないけど、他人だよ?言い方悪いけど、他人なんだからはなからどうでもいいじゃない。
そんなどうでもいい内容で「不幸」と「ハッピー」を見るならどっちがいい?
わたしの言い換えたい言葉で言い換えるけど、「気分の悪くなるもの」と「気分の良くなるもの」どっちが見たいかって言ったら、「気分のいいもの」を見たほうが自分のためになると思うんだけど、どうかな。
ハッピー吸ってハイになろうよ!
「他人のハッピー吸って、ハイになる」って表現、これこそまさに「炎上」とか「神経を逆撫でする発言」なのかもしれないけれど、どうせなら身近な明るく楽しい話題で元気になりませんか?ってことだよ。
わざわざ「他人の不幸」吸って「あま〜い」って喜ぶぐらいなら、「こんなハッピーな話題があります」って情報を見て、素直に「わあ、おめでとう」って言い合えるような世のほうが生きやすい気がして。
だってわたし、炎上で荒れたTwitterにもまれるぐらいなら「シャンシャンが木に登りました!」ってニュースで「ふぁー!平和!!!」ってなりたいもの。
わたし、こんなニュース聞けて幸せかよ!って。
ニコニコしてたいんだよ。
「他人のハッピー吸って、ハイになる」世にならないだろうか
ちょっと前までのわたしは、人の幸せを妬むやつだった。演劇研究部時代はひどかった。嫉妬に狂って病んでいた。だけど、何も得られなかった。嫉妬で演技が上手くなるわけでも、役がもらえるわけでもない。
今は人の幸せやハッピーな話題だけで、めっちゃ元気が出る単純な人になった。
嫉妬が0ではないけれど、嫉妬が何も生まないって知ってる。話題にのっかって生じた怒りや憎しみが何も生まないってことを知ってる。何かを生むのは「自分がどうしたいか」「それを生むためにどうすべきか」考えることができる自分だけ。
自分が元気になる材料として「他人のハッピー」はめちゃくちゃ役に立つ。おすそ分けだもの。不幸はおすそ分けされたくもないけど、幸せな気分はおすそ分けされるとものすごく元気がでる。
だからわたしもハッピーな話題で返したい。
「他人のハッピー吸って、ハイになる」世にならないだろうか。
「他人の不幸は蜜の味」より健全だと思うんだけど。
では。