こんにちは、齋藤吐夢です。
”余生”って考えながら生きると、心がラクになった。
余生というには早すぎるって?
まあ、ちょっと話を聞いてくれよ。
病気になって、はじめて知ったこと
私はずっと健康体で生きてきた。健康体で生きてきたつもりだったけど、20歳の時に受けた健康診断で引っかかって、トントン拍子で精密検査を受けて、ガンだって言われた。
正直、めちゃくちゃぽかーんとした。まじで?私が?ガン?・・・ガーン。
「ガーン」は今だからできるギャグだけど笑、めちゃくちゃぽかーんとしたのは事実だ。え?急に?まじで?って思った。ちょっと信じてなかった。
ただ病気になってはじめて知った。誰もが突然病気になる可能性はあるんだって。怪我も事故も、事件に巻き込まれるのも、自然災害に飲み込まれるのも、全部、全員にあり得ることなんだって。
私は生きてるけど、死ぬ人もいる。
死ぬ人もいれば生きる人もいる。
ものすごくシンプルなことに、私ははじめて気づいた。
余生を過ごすつもりでいいんじゃない?
人は死ぬときゃ死ぬ
ものすごくシンプルな事実「生きる人もいれば、死ぬ人もいる」は、私のその後の生き方を大きく変えた。
例えば病気になる・ならないは、完璧には操れない。健康に気をつかえば、可能性をちょっとずついじくることはできるけど、完璧じゃない。
人は死ぬときゃ死ぬ。
そう考えたら、言葉が悪いかもしれないけど、20歳から先の人生なんてあってないようなものじゃない笑?死ぬときゃ死ぬ。早いか遅いかはぶっちゃけ運っぽいのだから、余生を存分に生きたれ!って思えない?
絶対死ぬんだもん。生きたら?
あと、死ぬタイミングの話もそうだけど、人間のみならず、命あるものみ〜んな、最終的には死を待つのみである。この事実、シンプルだけど結構遠ざけていた。というか気づいてなかった。だから私は気づけて良かったと思っている。
絶対死ぬのが確定しているのだから、残りの人生への向き合い方は全力がいい。
あと数年先の話、数十年先の話、老後。そんな不確実な不安だらけの未来より、「絶対死ぬ」確実性をめちゃくちゃポジティブに捉えられるんじゃないかと思ったわけ。
だから私は余生を生きる。
30で死ぬなら、あと3年の余生。
40で死ぬなら、13年。
ただそれだけの話である。
未来もいいけど死んじゃ意味ない
もちろん予想していたより、余生の延長が見込めるかもしれない。かくいう私も、正直結構長生きしたいというか、最期には「め〜っちゃ生きた!もう生きるのがむしろ限界です!」って言って死にたくなってきたから、余生延長のための未来は考えてる。
だけど、今と同時に未来が構築されていくような生き方をしたい。というか、すべきだよみんな!!!
というのは、「未来にラクになるために今死ぬ気で頑張る」はやりたくねえなってこと。余生を生きるつもりなんでね、私は。今死ぬ気で頑張って、マジで死んだらどうしようもないのだ。
今死んじゃ意味ないんだよ。
だから余生だと割り切って、いつ死んでも満足できるような”今”を生きてほしいんだよ。わかる?
余生のつもりだから全力が出せる
「余生を生きてるつもりでいる」って言うと、大体みんなの反応は
- ちょっと早すぎる
- もうちょっと若々しい生き方を
- 達観しすぎなのでは
って言ってくれる。だけどね、20歳で「ガン」だなんて面と向かって言われたら、考え方、変わっちゃうんですよ笑。
でも・・・病気になってしまった人もそうでない人も、余生だって思いながら生きるとちょっとラクになるよ。もちろん私の経験上の話だけど。
ただ少なくともここに1人、余生だって思ってるから毎日を全力で生きる人間がいる。
「残りあとこれしかない・・・」なんて思いながら生きるのはそりゃつらいけど、「残りこれしかないからこそ、全力で楽しんだれ」って思うのは、おすすめできる。
まじで、人は死ぬときゃ死ぬし、全員死ぬし、誰もそれを防げないんだから。
余生を生きる、ってのもいいんじゃない?
では。
◆本日の一冊◆
肩の力が抜ける本。