あなたなら、どう死にたい?どう生きたい?

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 本日は、死生観の話

 

 

死について考えること

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 2017年から引き続き、親族の死や身近な人へ近づく死の匂いを感じ取りながら生きている。今は”生きている”けれど、わたしが20〜25歳だった時「死んでしまいたい」と思うほど心を病んでいた時期があった。死が近い生活があった。

 

 「死が近い」そう感じるわたしは時々、漠然と思う。

 

 「どう死にたい?」

 

 でもこの思いは「どう生きたい?」と同じだ

 

死は普通に訪れるもの

 死は避けられない。

 避けられないということが必ず決まっているのだから、死は”普通”なんだと考えている。人間誰だっていつかは死ぬ。人間だけじゃない。命あるものはいつか必ず死ぬ。死ぬことは決して特別なことではない

 とはいえ、唐突に訪れる死はどんなに”普通”であっても怖いし悲しい。大切な人が事故にあったら、その事故をずっと嘆くだろうし、大切な人が殺されたら、大切な人を殺した相手をどうかしてしまうと思う。

 

 それでも死んでしまった事実は受け入れる。受け入れざるを得ない

 

 死んでしまったら戻らない。

 それが”普通”なのだ。 

 

死は怖い?

 ”普通”である死。でもおそらく死は怖いもので正しいのだろう。

 味わったことがないものに対して好奇心を抱く人もいると思うが、死の場合には「好奇心<恐怖」になってしまうのではないだろうか

 それはやはり生に戻ってこれないから。

 わたしには死にゆく人の心に寄り添うことができない。恐怖を味わうその人の身代わりになれないのだから。ということは、わたしが死にゆくときも怖いのかもしれない。

  • 死には経験者がいない
  • 死の結果を誰も知らない

 死に近いことを悟って死んでいく人の中にも、上記のような恐怖を味わいながら死んだものもいるだろう。唐突な死に関しては、考える余裕も設けてもらえないのかもしれない。

 やはり死は怖いのだろうか。

 

死に方を考える

 必ず来るとわかっていて、なのにいつ来るかわからない死。それに対して恐怖を覚えっぱなしで生きるのは苦痛がすぎる。そのためわたしは死に方を考える。

 たとえば、わたしが死の直前まで苦しい闘病生活を続けていたとする。ならばわたしは死をある種のゴールとして捉えるだろう。「わたし、すごく頑張った!」と自分で自分を誇ってから死ぬ分には、気分悪くない。

 でもこの発想は、わたしがすでに「つら・・・」と思う量の抗がん剤治療を経験してしまったからかもしれない。「生きるほうがつらい」と一瞬でも思ってしまうような体と心の経験があると、潔い死に憧れを感じてしまうのかもしれない。

 わたしは、死ぬならドンと死にたい。

 「よく来たな、死よ!」ってぐらい、ドンと構えて死んでいきたい。そしてわたしはそうやって死ねるよう、生きたい。

 

 こう死にたいは、こう生きたいなのだ

 

死よりも怖いもの

 わたしは、自分の死生観が人を傷つけるかもしれないことを恐れている

 わたしは死に対して「死んだらそれで終わり」と考えている。だからお葬式やお墓、お墓詣りが大の苦手だ。正直な話をすると時々、いもしない人のために・・・と思ってしまうことがある。われながら最悪だと思っている。

 われながら最悪だと思っている理由は、結局お葬式やお墓詣りは、生きている人のための行事だからである。生きている人の悲しみを、わたしは踏みにじっているのだ。

 

 人の死は悲しい。

 でもその人は戻ってこない。

 戻ってこないことを受け入れて、生きている人は生きるしかない。

 

 でも、そう簡単に死を受け入れられない人だっている。当たり前だ。関係性の違いもある。どうやって看取ったかにもよる。考え方は人それぞれだ。それでもわたしはどこか冷静が過ぎて、「もう戻ってこないのだから」と言ってしまいそうになる。

 現実にこの言葉を吐いたことはない。それはわたしがまだ、他人がどう思うかを考える脳みそが残っているからだ。この言葉を吐いていいのは、わたしがわたし自身に言い聞かせるときだけだ。

 わたしは故人を見たとき、「死んでいる身体」としてその人を見た。生命活動を終えた身体を見た。”1人”の人間から、”1体”になった身体を見た。"1体"だと思った。生命活動を終えた事実に興味が湧いた。

 

 

 このことがどれだけ人を傷つけるものなのか分からない

 

 これが死よりもずっと怖い。生きている人を傷つけるほうが怖い。だからわたしはブログでしか、自分の考えや思いを、思い切って外に吐き出すことができない。

 

どう生きたい?

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 現代では「生>死」の構図が出来上がっていると思う。延命治療を施すことができ、安楽死尊厳死には否定的な構図が出来上がっていると思っている。だからといって「自分の死生観を広めて今の構図を逆転させよう!」みたいな発想はない。

 死は”普通”と書いたものの、そう簡単に死にたいわけじゃない。「死ね」って言われたらその人のもとから逃げるし、「殺してあげる」って殺されるのもちゃんちゃらゴメンだ。

 でもいつか、唐突に死ぬのかもしれないって思いながら生きている

 

 「どう死にたい?」は「どう生きたい?」を意味する

 

 いつ災害や事故に巻き込まれるかわからない。事件に遭わないとは限らない。病気で死ぬかもしれないし、老衰で穏やかに死ぬかもしれない。いつ命を落とすか分からないから、毎日死ぬ気で、言葉通り”死ぬ気で”生きている

 わたしは「生きていた時楽しかった!」って思って死にたい。「死んでも悔いはないな」って思えるように生きたい。

 

 あなたなら、どう死にたい?

 どう生きたい?

 では。

 

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