当事者にしか分からない痛みがある。だから私達は声をかけることしかできない。

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こんにちは、齋藤吐夢です。

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今回はまた病気の話。

病気ってね、悔しいけど、その苦しみは当事者にしかどうしても分からない。それが歯がゆい。それが互いに歯がゆいのだ。

 

私が当事者だった時は、言いたくもないし言わなかったけど「お前に何が分かる」って思ったことがある。今、当事者を目の前にすると「分かってあげられないんだ」と思う。

 

私達は声をかけることしかできない

当事者を目の前にして、私達はどうしても無力で、声をかけることが精一杯だ

 

当事者からすれば、それがまさに「お前に何が分かる」状態なのだと思う。心優しい人ももちろんいて、声かけを素直に「ありがとう」と言ってくれる人もいるだろうが。

正直、私は今でも「何で私が”がん”にならなきゃいかんかったの」と、どこへもぶつけられない怒りや苛立を抱えながら生きている

 

それでも声をかけ続ける

外科手術を終えた満身創痍の体を初めて見たけれど、この時のつらさはとてつもないものなのだろうな、と思った。声をかけたら返事をしたし、素直に話してくれたけれど。

看護師さんに「声をかけてください」「手を触ってあげてください」と言われ、そのようにしたけれど、私達は本当に、そのようにする以外に何もできない

 

当事者に対して、本当にそれぐらいしかできないのであった。

 

無力だなあと思いつつ

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私は医者ではないし、病気のことについて知識を得たところで、当事者に対して何もしてあげられない。無力さを感じた。「なぜ私ではなく、この人が」とも思った。

 

相手が望むことをできているのかどうかは、健康だろうと不健康だろうと理解することができない。人は人に対して、多分、本当は、とことん無力である。

 

それでも当事者だった5年前のことを思い出すと、皆からの声かけそのものが苦しかった記憶はない。

 

何故なら精一杯生きようとするか決めるのは私自身、当事者自身だからだ

 

声かけがつらかったのではなく、それに対応する元気が自分にない、それが悔しくてつらかった。私が知っている当事者は、まさしく今、そうなのだと思う。そうだと思いたい。

 

しかできないなら、それを全力で

結局最終的な判断は、当事者が決めるしかない

 

病気であろうとなかろうと、何かを決めるのはその当事者でしかない。その人が「○○したい」と言ったところで、私達にそれを叶えることはできない。

 

その人が生きたいと思うなら、その人の気持ちに任せるしかない。

 

私は応援したいから、応援しかできないから、声かけしかできないから、それを全力でやるしかない。と思った。

 

決意した。

では。

 

◆本日の一冊◆

映画観て三回も泣きました。生きたい時にはコレを読みます。