誰かがやってくれるかも、という思想が死ぬほど嫌いだ。

こんにちは、齋藤吐夢です。

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 ちょっと腹立たしいことがあったので、この場を借りて吐かせていただく。

人によっては小せぇ怒りだなと思うかもしれないが、私はこの思想の積み重ねによって要らんものを背負わされている人達の姿を知っている。

 

誰かがやってくれるかも、という思想が、私は死ぬほど嫌いだ

 

今日起きた出来事

私は今日郵便局へ行った。用事を済ませ、外へ出ると老女が何かを拾った後、それを捨て置いて立ち去るのが見えた。そこにあったのはクレジットカードだった。

クレジットカードをこんな無防備に置き去りにするのはまずい!そう思い彼女に近寄ると彼女はこう言った。

 

「それ折れてるし、もう使えないと思って」

 

確かにカードは折れていた。折れていたとはいえ、意図的に折ったのかどうかは分からない折り目だった。裏にはしっかり名前が記載されていた。

 

恐らくこのまま置き去りにしていたら、誰かが拾って悪用しないとは言い切れない。というかそもそもクレジットカードだ。個人情報の塊だ

 

しかし老女はそれを一度拾い上げ、使えないと思って捨て置いたのだ

 

私はそれに心底腹を立ててしまった。

 

くだらない?

 

だけど「折れているから使えないと思って」という理由で置き去りにするものがありますか?

個人情報の塊を拾い上げ、すぐ横の郵便局に預けるだけでも十分個人情報は守られると言えるだろうに。

 

誰かがやってくれるかも

私はこの老女の頭の中に「誰かがやってくれるかも」思想があると思った。どうせ折れてて使えそうもないカードを拾って預ける労力すら惜しかったのだと思った。

 

ただこの思想は本当に一人よがりのもので、本当にくだらない思想だと思っている。

 

会社員時代には、コピー用紙やインクが切れてブザーが鳴っても、誰も交換しようとしなかった。挙げ句、そのコピー機以外を利用するような人もいた。

公共のお手洗いでは、トイレットペーパーの替えが沢山あるのに、誰も替えようとしないから、2つ用意されているトイレットペーパーの場所が空だったりする。

 

換えれば、替えれば、拾えば済む話なのに「誰かがやってくれるかも」と思って動かない。

 

それが心底嫌いだ

 

もっともっと激しく忌み嫌うとするならば、その誰かに頼りっぱなしなことに気づかず、大口を叩く輩はもっと嫌いだ。

 

”誰か”を考えたことあるのかよ

もちろん「めんどくさいから」という理由も分からなくはない。なるほど確かにその労力すら惜しい瞬間というのはある。

ただ、その「誰かがやってくれるかも」に出てくる”誰か”のことを考えてことあるのかよ、と言いたい。その”誰か”がいるからこそ、私達は楽ができている。

 

それを考えたことあるのかよ。

 

そういう行いをやってくれる人のもとへ出向き、いちいちお礼を言えとは言わないけど、そういう思考の人達に、”誰か”を思う余裕があるのだろうかと考える。

 

誰かが誰かの尻拭いをしている状況を、そういう状態に陥るお前が悪い、要はいじめ問題において、いじめられる側が悪い等と言う思想の持ち主には”誰か”を思う余裕がないのだと考える。

 

相手を思えないのは惨めだ

私はそんな人のことを失礼ながら”惨め”だと思っている。相手のことを思う余裕もない惨めな人。今回出会った老女に関しても、決して性悪な顔をしていたとは思わない。

 

ただ惨めだな、と思った。

 

拾ったクレジットカードは、郵便局員さんにお願いして預かってもらった。近くに交番があれば交番に行っただろう。持ち主が見つかることを願う。

 

もちろん「人の振り見て我が振り直せ」を意識する必要はある。多分私にも余裕がない時はある。私は聖人じゃない。余裕がない時は本当に余裕がない。

 

だからと言って同じ惨めな人間になんてなりたくない、そう思っている。自分が動くことを意識して生きていこうと思っている。

では。

 

◆本日の一冊◆

余裕がないなら、枡野さんの本を読んで心を落ち着かせてよ。