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「介護殺人」誰にでもあり得る一線を越えずに済むなら。とある芝居の感想と考えたこと。

こんにちは、齋藤吐夢です。 

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カムヰヤッセンという劇団が活動休止になるということで。

丁寧で静かな作風の、しっかりと心に突き刺さるような、そんな芝居をする人達の無期限休止前、最後の作品とのことで、観て参りました。

最後の芝居は、「淵、そこで立ち止まり、またあるいは引き返すための具体的な方策について」介護殺人がテーマとなった作品でしたが、しっかり刺さりました。

 

芝居の感想

純粋に面白かったです。

 

色とりどりの照明。テーマとなる介護殺人を犯した男が発見された場所に生えているおおきな木が上手にあり、下手には取調室を模したセットが組まれていて。

その木の生えた河川敷を思わせる河原のような曲線と、雑草の生えたような地面。殺された老いた母と、疲れきったその男が乗る車椅子が舞台上に置かれていました。

 

三人の刑事もそれぞれに違った家庭の事情を抱えていて、人間らしく、その人がいない時にその人の噂話をしたりして。取り調べの対応に大きく差のある三人が、知るべき真実に対してぶつかりあったりして。

 

台詞一つ一つの重みが違った。他人から見える幸せと、当事者が感じている幸せへの差異について言葉を発した刑事役の声が耳に刺さった。

 

ただ淡々と物語は進んでいくのだけれど、徐々に息苦しさと切なさが襲ってくるかのようでつらかった。そんな芝居。

 

たった三人で回しているとは思えないほど、静かで重厚な芝居だった。

 

介護殺人について

題材となった介護殺人は多分これだと思う。

「地裁が泣いた介護殺人」10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末 | デイリー新潮

介護殺人だけでも気が滅入るほどつらいのに、この実際にあった事件の結末のつらさたるや。「どうして」「なぜ」と問うたところで、当の本人にしか理解できないつらさがあったとしか言えない。

知ることしかできない私たちには、この事件の存在を忘れないこと以外に、何もしてやれないし、できない。

 

誰にでもあり得る

それから、芝居を観ている最中に私が恐怖したのは、「誰にでもあり得る」ことだということだった。

劇中、殺人を犯した彼と境遇の近い登場人物がいるのだが、彼は一線を越えない勇気を持つことができた。一線を越えてしまった男を相手したことによって。

 

「どうして」「なぜ」一線を越えてしまったのか。それを責め立てたり、疑問に思うのが普通だけれど、一番怖いのは自分の中にも、一線を越える可能性が隠されているということだ。

 

親と子とそれらの命と

その相手が肉親だということのつらさは計り知れない、と思う。

日本における介護殺人の現場と今後の課題 | nippon.comという記事があった。高齢化社会になり、すでに75歳以上の4人に1人が同居する家族に介護されていると言う。

介護疲れ、将来への悲観。けれども、相手とは血を分けている。ただ、それだけでのしかかる重圧は他人のそれとは比べ物にならないのだと思う。

 

亡くなった曾祖父母や祖父母は、果たして幸せに逝けたのだろうか。私の祖父母や両親に待っている介護の必要性や老後の生活は、どのくらいの圧になるのだろうか。

 

考えたくなくとも、考えざるを得ないし、ある程度の覚悟は必要だ。

 

私自身が死にたがりだし、両親が祖父母が私のことを覚えていてくれるか確証もない。けれど私はこの間亡くなった祖母が90歳だったことを考えると、あとざっくり40年は生きなければならない肉親のためにも

 

観れてよかった

重みのある作品を観ることができて、本当に良かった。またいつか、彼らの作品を観ることができたならいいな、と思う。

では。

 

◆本日の一冊◆

介護殺人ではありませんが、「母」という存在の大きさに衝撃を受けた一冊 

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