子供を宿すのが怖い。女でいるのが怖い。無性別へのあこがれを抱きながら。

こんにちは、齋藤吐夢です。

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私が抱く女性としての生きづらさ

私の大好きな詩人、田村隆一さんのお話しの中で唯一相いれなかったのは、女性の役割の多さについてでした。

女性には三つも四つも役割がある。娘、妻、母、恋人と、昆虫の変態のように変化し、すべてを兼ね備えて生きているんだ

田村隆一さんは、この女性の役割の多さについて“エライなあ、とぼくは思うよ。”と言ってくださっている。

 

そのことはとても嬉しい

 

けれど私はこの役割の多さが本当に生きづらくてたまらないのだ

 

かつて誰かが言った言葉が傷をえぐる

誰が言ったかは忘れてしまったけど、誰かが「女は子供を産む機械だと言ったね。

でも、機械という表現に腹が立ったわけではない機械と名付けておきながら、まさしく人間的なその先の行為、産み育てるを当然のように強いる風潮が気にくわなかったことを覚えている

極論、機械として産み落とすだけで構わないなら、私だって結局健康的な子宮を持ち合わせているから、それで何か対価が得られるのであれば喜んで産み落とし続けよう。それこそディストピアなSFの世界よろしく、それだけで一生を過ごしたって平気さ。

けれど、その先の行為ができない女性に対しての非難の声が頭に響く。それが悲しい。機械のような揶揄をしたうえで、人間性を求めるなんて贅沢言わないでよ」と思う。

 

私は子どもを宿すのが怖くなった

私は今子どもを宿すことを正式に拒否している。

 

それは産みたくても産むことのできない女性からすれば、殺したくなるほど憎い事象かもしれないけれど、私は自分のもつ体と心の不一致から、そして一つ命を宿し育て上げなければならないという重圧にも似た何かを周りから感じ取るのがつらくて仕方がない

 

そもそも何のために子を宿すのか。

 

本能的観点からすれば、単純なる子孫繁栄のためだけれど、それこそ人間には郷が深い特徴的な何かがあるから、自分達の将来のために子供を産んでいるだけなんじゃないか、と思って本当に怖い。

特にそれは私の世代が、揶揄されがちなゆとり世代であって、デフレから始まった世代であって、まるで失敗作かのように扱われる風潮を秘かに感じ取るからかもしれない。

 

私は私の感じる生きづらさを、そのまま子孫に対して“私自身が”押し付けるんじゃないか、という恐怖を感じる。

 

女は産め、そして働け、を遠ざける

子供を設けないことを決めた夫婦もいる。子供を設けることを優先した夫婦もいる。主婦になった女性もいれば、バリキャリの女性もいる。ただ、そういう人がいる、ってだけなのに、なぜ贅沢にも全てを女性に求めようとするのか

 

働きたい女性は働けばいいし、産みたい女性が産めばいいじゃない。

 

それをなぜ、両方求めるのか。

 

これは女性に限った話ではなく、男性にもそうで、働きたい人は好きなだけ働けばいいし、働きたくても働けない人が働きやすい環境をつくればいいし、もう働けない人が休めればいいだけなのに、

 

なぜ、「皆同じであれ」を目指すのか。

 

無性別でありたいと願う

この恐怖、両親や義両親からのさりげない「妊娠・出産」への期待から得た恐怖で、立ち止まることになった私は今自分の丸みや膨らみや穴を本当に忌み嫌っている。

 

夫が触れれば私は本気ではたくようになってしまった。

 

触れるための玩具でもないし、性的な部分だけで評価されるのであれば、私は女でも男でもありたくない。凹凸のどちらもいらない。生殖器など必要ない。

 

私は一つの生物として生きる以外の関心は抱きたくない。

 

どうしてこうもつらくなったのだろう。

 

では。

 

◆本日の一冊◆

 性の在り方としても、好きな漫画。